高度不飽和な脂肪酸の呼び方

 名前の呼び方の話題が二つ続けて出たので、まだそのままにしておこうという気持ちが揺らいで、書いてしまおう(気になるのを黙っておくのも気分が悪いので。。。)ということにしました。
 テーマが、専門の話になるので、一度それなりのところで議論していって決めていくべきなのですが、それがないまま使う人が多いとそれに倣っていくという、デファクトな使われ方について、のことなんです。

 脂肪酸で、炭素同士の二重結合の数が増えると、不飽和度が高くなる、という言い方をしますが、たくさん二重結合がある脂肪酸を英語では、polyunsaturated fatty acid と謂います。要は、この日本語訳の問題なのです。

 最近の日本語で書かれた総説や学会の抄録等を見ると、ほとんどの方は、この日本語訳を「多価不飽和脂肪酸」として使っているようです。ところが、日本生化学会編の「生化学辞典」には、「多不飽和脂肪酸」と使われています(最新版も変わっていないと思います)。私もずーっと「多不飽和脂肪酸」を使って来ました。つまり、「多価」と「価」を付けるべきかどうか、なのですが、これ(「価」)は英語では valence ですから、多価 は、本来は poly-valence の意味で、多価 自体は他の化学の領域ではよく使われています。
 また、不飽和度の高さを表わす時、iodide(ヨウ素)との結合量が多いかどうかで表わすことがありますが、このときは、ヨウ素価 の値を使います。このときは、価 が使われますが、詳しくはのべませんが、上の 多価不飽和 の 価 のことではありません。
 つまり、言いたいことは、polyunsaturated は、「多不飽和」として使い、もうひとつ、同じ意味で polyene- というのも「多不飽和」として使い、不飽和結合が1つの場合の mono-unsaturated や mono-ene (or mono-enoic) は、「一価不飽和」ではなく「モノ不飽和」とか「一不飽和」とか(di-ene, tri-ene, tetra-ene などは、各々二不飽和、三不飽和、四不飽和、などと)使うほうが良いのではないか、と思うのです。

 ということで、授業でも学生さんには、多不飽和 を使っていますが、「多価不飽和」と使われてもいる、という説明をせざるを得ません。

 では、どうして polyunsaturated を「多価不飽和」と呼ぶケースがほとんどになってきたのでしょうか? valence のことはどこにも出ていないのに? おそらく、使っている場合は、この「価」は「二重結合」というような「結合」の意味で使っていると思います。(それなら、この場合、 多価 = 多不飽和 ということと同じですから、多価不飽和 は 多不飽和不飽和 とリピートしていることにならないでしょうか?) または、「多不飽和」というより、「多価不飽和」といったほうがリズムが良い?(意外とデファクト・スタンダードとなるにはそのような点が効いているのかも…)

 いつ頃だったか、10年以上前でしたか記憶は定かではないのですが、ある学会で客席から「多価不飽和脂肪酸という呼び方はおかしい」という意見を言われた方(確か、お年を召した、脂質の化学が御専門の方だったような記憶があります)が居られたのですが、私も「そうそう」と気持ちの上で相づちをうったのですが、その後はそういう意見は取り上げられず、いつのまにか「多価不飽和」がメジャーになってしまいました。

 また、権威のある国際的機関が決めたことでも、例えば ω3 という言い方ではなく、n-3 という言い方にしよう、と決めても、相変わらず ω3 が使われ続けています。n-3 も、「えぬ まいなす 3」と呼ぶか、「えぬ 3」と呼ぶか、でも曖昧なままです。私は、「えぬ まいなす 3」が正しいとは思いますが、呼びにくいので「えぬ 3」と言うこともあり、化学的に「正しい」呼び方でも、「言いやすいかどうか」などで色んな「方言」ができてくるのはしょうがないのでしょうか? 「呼び方」を お上(権威ある機関)が決めても、人々の口の動かし方までは、コントロールできないものですから、しょうがないですが、少なくとも 審査のある日本語の論文には根拠を持った書き方をした方が良いと思うのですが。。。

 このように割り切れぬもやもやの感情を抱いたまま、論文では安心して「polyunsaturated」を使っている今日このごろです。

(2000.8.15 記)

補足:学術的な文章ではないので、あまり説得力のない文章だった気がしますが、多価 について補足します。
 有機化学の分野では、「多価アルコール」とか「多価カルボン酸」さらに、「不飽和多価カルボン酸」などという書き方は使われています。これらは、OH基(の結合)がたくさんあるとか、COOH基がたくさんある、という意味でよくわかり、価 が、「結合」と同義で使われていますので、もとのvalenceの意味にあっていますから納得できるでしょう。
 しかし、多価不飽和 となると、「多くの不飽和の結合を持った」という意味だから、ということで、使われているとすると、ちょっとまてよ、となるのです。なぜなら、「不飽和」というのは、この場合、炭素と炭素との結合の仕方の概念ですので、二重結合もあるし、三重結合の場合もあって、OH基の結合 というような特定のresidueを意味しません。むしろ、「多価不飽和」とかくと 三重結合の不飽和のこと? などと誤解されても仕方がないかも知れません。(勘ぐり過ぎの嫌いはありますが…)
 上にも書きましたが、不飽和脂肪酸 というと、通常は 炭素間の二重結合を1つ以上持つ脂肪酸 のことなので、不飽和 という言葉の中には、「二重結合を1つ以上もつ」という「結合」の概念を含んでいる、と解釈します。そして、多価 というこれも「結合」の概念をふくんだことばですから、多価不飽和 は、「結合」がくりかえしになっている、と考えられるので、ことば的違和感が拭いきれないのです。

 しかし、当分はあまり気にしないで、おつき合いしていく予定ですが、学生から質問されたら、こんな解釈をして自説を披露するつもりです。

サッカーのトルシェ監督が、選手で色んな役割をこなせるようにという課題を出す時に、poly-valence な選手を目指して欲しい、というようなことがだいぶ前に出ていました。(関係無いけど;;)