遅れてくる意識

  後学期が始まって、全学共通教育で主に1年生向けに「脳と化学」という授業と、生命工学科の3年生向けに「代謝生理学」の授業を開始しました。「脳と化 学」の授業は、もう今年で10年目なのですが、数年前から半期1単位の授業として、その後の「空間認識力訓練技術」の授業と抱き合わせで、全学部の1年生 向けの「教養教育の一部として」やってきています。このような脳神経系に関するごく一般的な知識を分かりやすく話するという作業は、この大学1年生を対象 とした授業以外でも、放送大学の対面授業でも数年前に行いましたし、来年の1月にもまた行う予定なので実に12回も一般向けの脳科学の講義をして、500名程度の色んなバックグランドを持つ人達がその講義を聴いてきたことになります。
  振り返ってみれば、今まで何度か「脳ブーム」と呼ばれる現象がありました。2003年ごろからの「脳を鍛えるドリル」ブームや、2006年ごろからの脳ト レを話題にした本やゲームが世にあふれてきて、現在に至っています。1990年代の中ごろにも「脳内革命」ブームがありましたし、それよりずっと以前の 1950年代には、「グルタミン酸は脳に良い」ブームもありました。これらの「脳ブーム」に対しては、少し古いですが、津本先生のこのような批判的論評を読むのがいいでしょう。
 4 年ほど前に、その「脳と化学」の授業を、半期1単位にしたときは、実は「こんなに脳科学の一般書が巷に溢れている時代に、脳についての教養教育なんて大学 では必要無いんじゃないのか?」という疑問があって、気分的に「撤退」してみようとしたからでした。もともと、「脳と化学」授業で伝えたかったメッセージ は、「脳とこころ」という素晴らしく複雑な現象を、化学の言葉で説明しようとしてきた人類の歴史と、化学で理解することの困難さ、それに脳と身体は統合的に捉える必要がある、というものでした。
 そ のため、細胞レベルでの実験や動物実験のレベルの知識から、一挙にヒトの脳と心の働きを「解説してみせる」先生たちや、脳を「活性化」するのは脳に良いこ と(ディメンチアの予防や子供の頭を良くしたい、・・)という短絡的な考えを煽る先生たちと、脳に「良いこと」を性急に求める一般市民の反応の仕方、に疑 問を感じ、部分的に撤退をしたものでした。
 部分的に撤退をして、残り半期の授業を「空間認識力訓練技術」という、内視鏡訓練システム(以前自分 たちが製作した装置)を利用した「脳の視覚処理と体の動きの統合」を体験する授業にあてていました。ただ、こちらのほうは、普通の座学ではないので、装置 に限りがあるので15名限定で行ってきました。この授業では、「騙されやすい視覚とどう付き合うか」ということを、実際大腸内視鏡を操作することによって 体験し学んでいくことを目指していました。大腸モデルもちょっとへたってきたし、今年は全員医学部と獣医学科の学生だけになってしまった(というか元々医 学部と獣医学科の学生を優先にしてきた)ので、実用的過ぎる傾向が強まったこともあって、この授業は来年からは中止にすることにしました。その代わり、ま た「脳と化学」授業の2単位化をすることにしました。来年度からです。
 数年前から、神経化学の正面からの研究は止めていましたが、搦め手という のか、むしろヒトの身体のほうに興味を持って研究を進めてきていました。それも最大の臓器である皮膚を対象にした研究を進めてくるうちに、2年前には資生 堂研究所の傳田氏の書いた「第3の脳−皮膚・・」の書物にも触発されて、ある考えに惹かれました。それは、皮膚は脳への最大の感覚情報供給システムであるか ら、もともと「脳と身体の統合」の理解を目指したものとしては、脳の出先機関としての皮膚、という捉え方です。脳や精神や身体の状態変化が皮膚症状として 現れる、「デルマドローム」という捉え方もあります。
 ところで、数年前から「脳と化学」の授業でも話している、「0.5秒遅れて、意識は現れる」という科学的知識は、今一度深く考えてみる必要がありそうです。最近、2002年発行の「ユーザーイリュージョン」という大部な本を読む機会があって、この本の著者であるトール・ノーレットランダーシュの深い考察に感銘を受けました。その「意識の遅れ」現象の発見者であるベンジャミン・リベットの「マインドタイム」という本もありますが、ノーレットランダーシュというライターの、エントロピー・情報理論からこころと意識を理解する、というアプローチの「深さ」に感心したものです。
  この0.5秒の意識の遅れ、というのは、つまるところ、脳と身体の統合による「こころ・意識の発現」のメカニズムに由来するのです。皮膚という最大の面積 を持つ臓器などから、数百万ビット/秒の情報が脳というシステムに送られてきても、私たちは数十ビット/秒という情報しか処理できずそれが「意識」なの だ、ということです。その処理に時間がかかり、それが「0.5秒の意識の遅れ」となって観察される、というわけです。脳は、柔らかな「情報処理マシン」と いう捉え方をされますが、魑魅魍魎ともいうべき有象無象な無意識、あるいは潜在意識ともいうべき大量の情報が脳に入ってきても、そのほとんどは捨てられ て、そのうえでようやく、その極々小さな情報である「意識」という情報が生まれてくる、というわけです。
 明確な意識というものは、そのバックグランドには魑魅魍魎な無意識、即ち捨てられるべき大量の情報があってこそ生まれている、ということが理解されると、その意識が生み出した人間の社会、文化、科学、都市、そして文明も、その背景にあった多様な人間の身体がイメージされるのではないでしょうか。

  ちょっと話がスコーンと飛びますが、その多様な人々の意識が、今年の8月に自民党政権から民主党政権にチェンジさせました。明治以来の、一種の「革命」と 呼んでもよい、という説もあります。何十年と続いてきて習慣化していた「官僚主導」の政権を、がらっと「政治家主導」の政権に変えようとしているようで す。日本という国家の意識としての「政策」は、それが表現=実質化するためにはその背景にある有象無象の大量の情報を「処理」していくことが必要でしょ う。それには、当然のことながら時間が掛かるでしょう。人間の脳であれば、0.5秒ある意識の遅れであっても、国家の「意識」ともなればその実質化するた めの時間は長いでしょうし、1年以上掛かっても変じゃないでしょう。・・・なんてことも関連して思ってしまいます。

 生命的なシステムは、生物から人間の意識、地球のシステムに至るまで、見える形で表現されるまでには、結構長い時間が掛かる、ということです。その背景には大量の情報を捨てる時間が必要だからですね。
 複雑な現象に対して、理解という意識が出てくるには、考える時間が大事。

(2009.10.31)