夏本番 世界も熱い

   昨年の福島第一原発事故から1年4ヶ月が過ぎました。この大事故から私達人間はどう反省し何を学ぶのか?これが非常に重要なことですが、7月になって、学ぶために 最低必要な事故調査の報告書が、3種類出揃いました。すなわち、国会事故調、民間事故調、そして政府事故調です。しかし、出揃ったといってもまだ事故現場 では人間の近づけないところがいっぱいあり、「失敗の本質」を解明するための重要な作業が十分ではないのに、最終報告書と銘打って出すのはもともと時期尚 早でしょう。第一、一番知りたい「地震によってどこがどうなったか」という点も、「地震の影響は否定出来ない」という報告と、「地震の影響はほとんど無 かった」という報告もあり、立場が異なっているのです。これでは「最終報告」にはなりえない。政府事故調が報告を発表する前に、NHKで7月21日に放送 された「NHKスペシャル メルトダウン連鎖の真相」は、事故調関係者が本当に知っていたのか、と疑問になりました。その番組では、実に明確に地震の影響 で(津波の影響でではなく)配管の一部が壊れてベントが効かなくなって大量の放射性物質が放出する原因となった、ということを専門家に証言させていまし た。
  このように、失敗があったら、見直し、原因を追求し、反省するということが最低必要なわけですが、しかし、その反省も独り善がりの反省では意味がありませ ん。反省の仕方自体が問題であり、反省の作法というものがあるはずです。安全神話などという「神話」にさせない反省の仕方が必要です。

 今、世界の関心はロンドンに集まっています。オリンピックの熱い試合も始まりました。最初にあったサッカー男子のスペイン対日本の 試合は、実に見応えがありましたし、優勝候補スペインを破ったことは素晴らしい成果でした。スペインの立場からすると、これは大いなる「失敗」ということ になりますが、その失敗の修正もされることなく、次のホンジュラス戦でも敗れ予選敗退となりました。絶対大丈夫、といわれているところほど、結構失敗して いるのがこのオリンピックの面白さ、でしょう。体操の内村選手の失敗も、絶対優勝大丈夫、と言われ続けて、体とこころのバランスが悪くなったせいでしょ う。
 たぶん「悪魔の辞典」には、「絶対」という言葉は、「それが付くと実はそうではなくなる確率が高くなる独り善がりの枕詞」とでも載っていることでしょう。福島原発でも、「絶対安全」と言われて続けてきました。 (*追記:ビアスの悪魔の辞典には、[Absolute](絶対の)には、「adj. 他に依存しない。無責任な。」と意味付けがなされています。)
 
  7月下旬は、大学では前学期の試験期間に入る時期になります。そして、カンニング防止のために相当なプレッシャーが教員にも学生自身にも掛かってきていま す。学生の質を保証するにはこういう作業が必要だ、ということで、授業と試験以外でもアンケートなど学生には様々な作業をするよう要求がされています。昔 は、よかったなぁ。僕らが学生の頃はもっと大らかな感じの試験でしたし、もし「学生の質を保証する」などということが言われたら、「そんなばかな!学生は 電気製品じゃないんだから大学が学生の質を保証できるわけがない!」と一蹴されたことでしょう。スイッチ入れたら同じ音が出るように品質保証された電気製 品は必要だが、「スイッチ入れても多様な音がでるようになっている」ほうが学生にとっては大事だ、というわけです。まあ、でも社会人として最低振る舞える 作法というのは必要なので、それぐらいは保証してあげたいところですが、実はそれは教科書に書いてある古い知識を覚えてもらうよりはるかに難しいことで す。むしろ大学にいないほうがよく学べるということもあります。

 学生が、学んだことを確認し反省するために試験はあります。(原発にもストレステストがあります。)
 それは学生のためでもあり、独り善がりにならない反省をするために他人が出す試験を受けて確認するわけです。また試験は、教員にとっても(当然大学にとっても)学生を評価し、単位を与えるための根拠を得るために行うという面もあります。大学設置基準には、「第二十七条  大学は、一の授業科目を履修した学生に対しては、試験の上単位を与えるものとする。」 とありますように、試験を受けて単位をもらうことになっています。この設置基準では、試験について書いてあるのはこれだけで、試験の定義も、試験の内容 も、どのように、いつ、するのか、についても何もかかれていません。口頭試験か筆記試験かなどについても、何も規定されていません。単位を与えることが妥 当かどうかを判断するために試験(テスト)をする、としか規定はありません。また、その試験は、授業の時間内に行ってはいけないとも書かれていません。 「定期試験等」という言葉が設置基準にでてきますが、これは「(一年間の授業期間)第二十二条  一年間の授業を行う期間は、定期試験等の期間を含め、三十五週にわたることを原則とする。 」にあるだけです。上に書いた試験は「定期試験」でのみ行なえ、とも書いてありません。因みに、三十五週というのは、実際講義などをやる授業期間(15週 +15週)に、ガイダンスや履修登録期間や定期試験やその採点期間、成績登録期間など授業に必要な諸々の作業を行うために5週(半期では2.5週)をとっていると、通常 は解釈しています。
  ただ、この最後の三十五週の解釈では、法学部の一部の先生(PDFにリンク)は、三十週は講義だけ(試験・小テストなどは含まない)であとの五週は試験を行う週(教室の 数が少ないので大人数の場合は時間がかかる)というふうに解釈している場合もありますが、これは結構無茶苦茶な解釈だ と思っています。設置基準では何も規定されていない「試験」のやり方ですから、結構勝手に解釈して圧力を掛けている可能性があります。また、現状では、半期あたりガイダンスに0.5週とり履修登録に最低1週とっていますので、試験の採点と成績登録に最低でも1週は かかりますから、講義だけの十五週と定期試験の1週をプラスして考えると、結局0.5+1+15+1+1の18.5週掛けていることになります。1年では 18.5×2=37週掛けていることになります。(三十五週という基準に違反します)つまり、定期試験の週を入れて16週を含め、設置基準からすれば全体的に 「過重労働」になっていると思われるので、どこかで半期1週分減らさないといけません。しかし、ガイダンスも履修登録期間も採点・登録期間も必須ですか ら、どこを工夫すべきかは自明でしょう。
 本来、試験をどのようにおこ なうかは、大学に任せてあると解釈すべきものでしょう。規定がないのですから。
 今回も(以前もメモに書いていますが)、私の授業でおこなう試験では、定期試験の期間よりも2週 早く(14週目)行ない、15週目に点数をつけた解答用紙を学生に返却し、答え合わせを行ない講評して、学生が間違えていればどういうところで間違えているか指摘して、反省を促しています。そして、成 績の付け方も、統計的な意味合いも含めて公表し、学生に納得してもらっています。なぜ自分はこの点数でCで、Bではないのか(あいつとは1点しか違わないのにあいつはBになっている、などと)、ということなどにも統計的に 理解できるように説明しています。試験は学生を評価し単位を与えるためにも行ないますが、それ以外の有効な教育的意味があるので、すなわち反省の機会とい うことですが、それをしないと、間違えた学生は間違えたままになってしまいます(それでも全体の点数がある程度あれば単位をもらえるのです)。しっかりし た試験を行い、反省する機会をあたえることが、学生の質を上げるためにも(保証するわけではありませんが)大事なことだ、と考えていますが、現行の「最終日に行う 定期試験制度」(失敗の反省の時間を与えていない)自体、あまり学生の質を「保証する」制度にはなっていないのではないでしょうか。

 事故があった場合でも、学校での試験の場合でも、間違えたり失敗したりした場合、どのように反省するか、反省する機会をどう与えるか、という「反省の作法」を会得することが教育課程においては非常に重要になると思います。
 
(2012.07.31)