昨年大晦日から一月下旬の今まで、まだ1ヶ月も経っていないのですが、何か、もう数ヶ月も経ったかのような感じをもつのは、例の12月26日に起こったスマトラ沖大地震及びインド洋津波被害のせいでしょうか。この大災害は、地震自体の大きさはそう稀なものではないようですが、やはり津波がすごかった。全地球が揺れた、といってもいいくらいな感じですね。これも後世に語り継がれる災害であるからこそ、その災害名は大事です。昔の記憶では、「チリ地震津波」が有名で、小学校3年ぐらいでしたが僕も今でも覚えています。その「チリ地震津波」という言葉を聞いただけで、昔の報道の記憶がぱーっとわいてきます。今回のは、上記の名前はちょっと長いので、たぶん「スマトラ地震津波」ぐらいになるのかな。新潟中越地震の名前は、そのスマトラ地震津波の名前とセットで人々の記憶に残っていくでしょう。
昨年末ごろ、おなじ命名の仕方について記憶に残っていること。それは、痴呆症が「認知症」に変わるという報道でした。これを聞いて僕も自分のBlogで(秘密)昨年暮れに書いてたんですが、認知症ってのはおかしい、やはり認知失調症だろ、と。そしたら、最近(1月22日)の新聞にある大学の認知心理学の先生がオピニョン欄に「認知失調症」の方が良い、認知症というのはおかしい、と書いていました。変なだけでなく、認知というちょっとわかりづらい名前に対して誤解を抱くんじゃないか、という心配もある、という視点が述べられていました。さもありなん。
昨年やはり、精神分裂病に対して統合失調症に呼び名が変わりましたが、これも「欧州統合」などの統合をイメージしちゃうと変なんですが、それでも知っている人間にとっては、脳の中の統合機能が失調しているということで、まぁいいかな、という感じはある。だけど、認知症はいかんよ!「症」は、高血圧症、動脈硬化症などのように{不具合な状態}+「症」という命名法で使われるので、認知症というと認知は{不具合な状態}か、ということなります。認知は、意識とか記憶とか普通に脳がやっている働きの名前ですから、不具合な状態の名前ではない。これは誤解を招くし、将来の認知心理学などを志す若い人への影響が心配されます。命名する立場にいる学会関係者の日本語感覚を疑ってしまいます。
モノやコトに名前をつける、というのは人に名前をつけるのと同様にすごく大事なんですよ。決して、言葉の遊びじゃない。遊びの要素も否定はしないが、それだけじゃない。医学的な名前や病気の名前などは、論理的に妥当であることがまず必要だろうと思いますね。俳句のように、短い文字に万感を込めることのできる日本語を操るわれわれとしては、名前にはもっと拘って貰いたい。
それから、また最近、大学の助手の名前を、助教 と 助手 の二つに分ける、という案が出されました。自分で研究をやるような人は「助教」だとか。これも、どうだかなぁ。なんとか教のような宗教者のようにも見えるし、発音だけからは「女給(じょきゅう)」を連想するし、なじめないなぁ。助教授を准教授に、というのは、わかる。アメリカのAssociate Professor は、前から准教授と訳していたから、なじめる。しかし、助教 は、安易過ぎるし、なじめんな。講師か「准講師」ぐらいのほうがいいんじゃないだろうか?
(2005.01.23)