仏蘭西 観想

−あの頃湾岸戦争があった−

1990年秋〜1991年春 パリ留学日記より抜粋;非アカデミック版)

**これは、21世紀になった今、ほぼ10年前のフランス滞在の思い出である。そして、あの時も、米国大統領はブッシュであったし、今もその息子のブッシュにかわった。日本ではその頃は、金融経済でバブルがはじけつつあったが、その予感はあった。たった半年の滞在だったが、ヨーロッパから見た時感じた日本の状況の危うさ、弱さ。それは、一体なんだったのか?ドイツ統一や湾岸危機のころヨーロッパに行き、湾岸戦争終結近くに帰国した、そういう時期に研究の仕事とは別に考えた事。この抜粋はそれを思い出す作業でもある。21世紀に入った今の世界の状況は、既にこの時動き始めていた!****************

1990年

9月29日(土)

     パリに住み始めてようやく1ヶ月が過ぎた。秘書のミレーユから連絡があり、INSERMから振り込まれるはずの給料が銀行(CIC)の手違いで、口座番号(Numero)が間違って伝わっていて、10月中旬頃になるらしいとのこと。また、Prefecture du Police Cite島にある)からConvocation(招請状)が届き、10月1日に行くことにした。さらに、ラジオ(SABA社)を買った(155FRepublique駅の近くのDARTYというショップで)。給料が遅れることは、こちらにはまだたいしてダメージではないが、Bourre先生は丁寧にICIに抗議の手紙を書いてくれた。

     ラジオを買ったことは、正解だったと思う。まず、日本語放送が聴けるようになったので、テレビは無くてもリアルタイムの情報量が3倍くらいに増えた。(95.6MHz、午後9時30分から10時までの30分間)次に、クラシックだけのチャンネルがあること、ラジオフランスでニュースだけを聴けること。短波で英国放送が聴けること。あとは、FMが中心だが、20以上のチャンネルがあるので色々聴ける。クラシックでは、昼頃、アンプロンプチュ(ピアノ)をやっていた。懐かしい。

     9月30日から冬時間になるので、時刻を1時間遅らせること。今、日本語放送で、日本のヒットチャートを流している。ピンクサファイヤというグループが流行っているらしい。どうでもいいことだが。明日は、午後からオルセー美術館に行き、帰りにV.Hugo記念館に寄ってくる予定。

     今日の夜は、またまたBourre家の方たちからおよばれで、バスチューユ広場の近くの日本料理店(「桜」串焼き料理)に行った。ビールはキリンだった。久しぶりに日本的な料理でうれしかったが、店員は誰も日本語を話せず、フィリッピンかベトナムの人と見た。お客は皆フランス人だったが、結構はやっていて、じょうずに箸をつかっていた。「日本料理」は、ハード+ソフトの日本からの大きな輸出品である。すしか、ヤキトリができれば、レストランジャポネの看板がかけられるのだから、それもかなり儲かる値段であるので、今後この手の店が多くなるのだろう。

     フランス語は、その難しさは、特に聞き取りが難しいのは、リエゾンが多い点にあり、決まり文句のように覚えたほうがよいのが多い。ただ、耳を慣らそうと思って漫然と聴いていたのでは、音楽と一緒で、意味が伝わってこない。文法を覚えても聴くのは難しいだろう。たとえば、ジュプブゼデ?(Je peux vous aider)(力になりましょう)もひとかたまりとして覚えないと、音→意味への変換ができない。あと、トレザンパル(R)トンなども。(とても重要、という意味)書けばわかるのだが。

10月13日(土)〜14日(日)

     このごろ、1週間が早く過ぎていくような気がする。慣れてきたことと、緊張感もだいぶ低下していることが原因か?日本からのFAXや手紙が多くきて、そちらの世話のことが頭をもたげてくると、今の自由な気分がこのまま続いてほしいとも思えてくる。

     12日の夜は、またMustafa君と南へ繰り出した。彼の友人というアメリカ人のNancyさん(60歳くらいのおばさん)とサンミッシェル広場で待ち合わせして、モンパルナス周辺に行き、クレープ屋(クレッピィ)に寄った。これは、先日ラジオの日本語放送で話していたのがきっかけで、ブルターニュ式の甘くないクレープを食べようということで、彼を案内役にして行ったわけ。メトロでモンパルナスに行き、少し歩いて、大通りの側にはなかったが、少し小さな通りに入ったら5〜6軒のきを並べていた。43Fでサーモン入りのクレープ(小麦色の皮でサーモンの切り身のいためたものをくるみ、バターをのせてレモンの汁をかけて食べる)を食べた。おなかは膨れないので、さらにジャム入りのクレープも頼む。白ワインと一緒に食べておいしかった。Mustafa君とNancyさんも、赤ワインとそれぞれのクレープを食べていた。Nancyさんは、カリフォルニアの人で写真家で、McDonaldBurger Kingのハンバーグなどの展示用写真などを撮っているらしいが、小さなDetailのあるものに大変興味があるそうだ。各国を回っているが、日本には来たことがないらしい。

     ほろ酔い気分で10時少し前に出たが、モンパルナスタワーに登ろうというNancyの提案でついて行くことにした。聞いたら金曜日は11時まであいているらしいので、彼女はうれしそうにして上がった。56階からの眺めはなかなか綺麗であるが、ネオンはほとんど目立たなく、ダイヤの輝きが暗闇の中に光っている。墓地のところだけが真っ暗である。日本人の女性客が2組あった。エレベータから一緒に降りるとき、Mustafa君が片言の日本語でしゃべったら彼女らの気を引いて振り向かせた。Mus君が私をBrotherとか言ったので、私は日本語で彼女らに「Pureな日本人だよ」と話したが、どうも私を中国人と間違えたらしい。面白い雰囲気であった。

     先日の昼、ラボのキャフェテリアでOlivie君と議論をし、日本人の働きぶりなどのCrazyさについてDiscussした。彼の話では、一生を終えるとき、「ただ働いた」というだけではいやであり、城を回ったり楽しい事をして過ごして、エンジョイライフが大事である、というのが一般的なフランス人の考え方なのであろう。仕事が、人生の楽しみの80%と思うのが日本人(特に研究者)とすれば、フランス人は20%が仕事の楽しみ、あとはその人なりの楽しみ方(映画や演劇、さらには社会事業など)をもって暮らしていくということなのか。ということは、フランスではそれなりの楽しめる空間や時間があるからできるということで、フランス国家として、文化的なものにお金をかけているというのは、フランス人の欲求があるからだ、ということになろう。そういう国民のIdeeが問題なのであろう。経済的な発展と、文化的な充実とは、うまくいかないのが日本の問題点か。彼らフランス人にとって、有名な日本人とは、中島(F1カーレーサーの)、大島渚、あと黒澤明である。日本モノではマンガとエロが売れ筋とか。少々情けない。

      土曜日の夕方、Bourre先生の出版した本を囲んでの地域の市民の話し合いの会が近くのエスパース7というところであり参加した。コーヒーとケーキが出た。彼の本のサイン会も兼ねていて、約20名の人たちが参加していたがほとんどが近くの奥さん方で、それでも結構彼の話に対してよく質問をしていた。Nativeのフランス語での講演だったのであまりわからなかったが、storyは判った。あとで、彼から話を聞くと、2回、日本についての話をしたらしい。1回は日露戦争のとき、ビタミンBの取り方での戦い方の差が出た、という話と、2回目はFibre(繊維分)のとり方の話があったそうである。Japonaisの話になると、自分に視線が集まったのだが、笑ってごまかした。

      しかし、彼のような生化学者がこのような社会的活動を取っているのを見るのははじめてであるが、やはり彼はパリ11区の副区長(ViceMeyer)をしているくらいだから政治がすきなのか、とも思う。そういう好みとは関係なく、日本でも医者が一般人を対象にした教育講演をやるのと同じように、生化学者がそのような行動をしてもよいのではないか、とも思う。その前に、専門家と一般人向けの中間ぐらいの話を含んだ、How-toものと、哲学と、基礎医学と、エスプリに富んだ、そう、大まかに言うと村上龍的な軽いのりでその分野の話をしていけるような形で、本をまとめる必要があるが、ともかく、Bourre先生のような人は日本ではあまり見当たらない人物である。大変興味深い。

      日曜日の午後には、「科学産業都市;La Cite des Sciences et de l'Industrie」という名前の巨大な科学博物館にいった。これは、パリの北側の郊外にある。なかなか、よくできたところである。一部しか見れなかったが、Neuroscienceの先端的な内容のビデオを分野ごとに流していて大変興味深かった。人ゲノム計画(HUGOプロジェクト)の詳細も展示してあった。そこで、1時間以上いてしまった。他にも、鏡像にならない鏡とか、カオスの動きをする水車とか、なかなか頭脳を刺激する数学のコーナーもあり、ここはあと3回くらいは来て見る必要があるようだ。前にアメリカにいたとき、ボストンのサイエンス博物館でもその充実ぶりに驚いたが、ここはそれ以上に充実している。スペースをたっぷりとった新しいMuseumである。日本も、このような教育施設にたっぷりお金をかけるべきである。企業からの大きな援助が必要であるが、今、個々の会社独自ですすめているイベントやら研究施設を、このような大きな1個の教育施設を関西あたりに作ったら面白いと思う。とにかく、たっぷりとスペースを作らないとおもしろくない。新しく進化していけないからだ。

10月21日(日)

     日本からSurface Mailで送ってもらった荷物が研究室に届き一安心。冬物の荷物があったが、まだその必要の無いほど暖かい。ラジオでは17〜8度が最高気温になってきたと言っていた。

     土曜日にパリ市内にある科学博物館(Palais de la Decouvertes)に行った。Lyceeの学生たちが色々展示をしていた。ここは、中高校生向きで、普通の博物館並の展示である。1つ、Cosmic Rayを霧箱(過飽和のアルコール)中でトレースとして見えるようにしているものがあり、面白かった。さらに、NMR-CTの様子やPositron Emission Tomographyの展示など、先進的な展示がちゃんとあった。しかし、ここは、あまりお金をかけていない気がする。

     そのあと、日本人会に行って、新聞に目を通す。日本では、自衛隊を国連部隊として派遣するかどうかでもめている様子。出さないのがEconomicalにも、Ethicalにも良いのは当然だが、日本を離れてみていると、やはり派遣するようになるのだろうか、という気になってくる。日本にはドイツのような問題はないし、いっそう軍事的側面に力が入ってくるのかもしれない。ずっと野党のほうが、より「自由」でありうる。

    ようやく、髪が伸びたので理容室にいくことにした。Hideoの店、という日本人が経営しているお店に行った。お一人で経営しているそうで、23年目だとか。カットはうまい気がした。(シャンプーとカットで150Fであった)

    日曜の昼からは、Palais de Tokyoや、シャイヨー宮、エッフェル塔、人類博物館などをまわった。人類博物館はなかなか面白い。民族の特徴が流れるようにわかる。ヨーロッパの人たちの起源を知りたくていったのだが、ここでは、ヨーロッパは4つの民族に区分されている。スラブ系、スカンジナブ系、ゲルマン系、そしてラテン系である。フランスはラテン系の言語だが、これはローマ人の侵入によるところが大きいのだろう。Bourreさんたちは、自分たちはラテン系だと考えている。ただ、メロヴィング朝を築いたクロヴィスはフランク族で、これはゲルマン族の一族である。さらに、カール大王(シャルマーニュ)でドイツ、フランス、イタリアが大帝国になってから、さらに843年にヴェルダン条約で3分割される。したがって、フランスにはラテンの血と、ゲルマンの血が入っていると思われる。イギリスはゲルマン系でアメリカも基本的はその末裔である。また、8世紀にはアラブの侵入も受けているので、ラテン+ゲルマン+アラブの混入が大いにあったと考えられる。ただ、言語的精神的にはラテン系なのである。ECといえでも、大きく分けると4つも民族があるわけで、精神的にはあくまでこの4つの混合物にならざるを得ないだろう。Bourre先生から、最近誰かから家へ招待を受けたか、と質問されたが、ラテン民族ではあまり人を家へ呼んだり、パーティを開いたりすることが好きではないらしい。ゲルマン、アングルサクソン系とは異なる精神状況のようである。完全に家(家族)と、他人や仕事を混ぜない、ということなのだろうか。それだけ、家族は聖域のような大事なところなのかもしれない。それだけ保守的精神ということか。日本人は、どちらかといえば、ゲルマンというより、ラテン系に似ている気がする。言語系は、この4民族だけでは割り切れない非常に複雑な状況である。バスク地方では、そこだけ特殊な言語系を持っている。

10月27〜28日(土、日)

    ほぼ、2ヶ月経ってようやくINSERMから給料が出た。一安心。

    いろんなストレスのせいか、23日から風邪を引いてしまった。最近パリではメトロでも通行中でも研究室でも鼻をかんでいる人がやたらと多い。やばいと思ってうがいは励行していたが、たぶん、21日にトロカデロ付近まで寒風の中を歩いて汗をかいたのがいけなかったのかもしれない。それと、部屋の暖房も入れていなかったので、条件は悪かった。23日の夜はほとんど眠れず、鼻はつまるし、鼻水は出るし、のどはひりつくし、耳の中まで痛くなってくるし、で、ヤバイヤバイと思って、抗生剤と消炎剤(Dasen)を飲んだ。24日は午後には帰宅し薬を飲んで寝ていた。幸い、熱は37度ぐらいで、rhumではなくfroiであろう(J’ai attrappe froi !)。漢方薬の風邪薬や鼻つまりの薬も飲んで、やや薬漬けに近かったが、おかで、26日にはすっかり直った。正常であれば、Olivieの家でディナーに呼ばれるはずだったが、彼も風邪で、またの機会に、ということにした。

    27日の夕方、FNACに行った。すごい人だかりだ。20代がほとんどのようだが、無数にあるディスクやテープを熱心に探している。お目当ての、喜太郎の「古事記」と、Kasse Made の「Fode」は見つからなかったが、クラシックのCallasの「Madam Butterfly」と「La Traviata」を買った。

11月3日(土)

     いよいよ11月。9月に仕事が始まって、パリの人々のめまぐるしい日々も2ヶ月が過ぎて、1週間のバケーションを持つことになっている。日本でいえば、お盆休み。Toutsaintである。万聖節(11月1日)で、すべての神様(Saint)を祭る日で、翌日2日は死者の日で本当はお墓参りの日らしいが、大体1日の休日にしてしまうらしい。Bourre家はセカンドハウスで休暇中。彼は、10月30日だけ出てきたが、すぐ副区長の仕事で午後からいなくなり、そのまままたバケーションへ。それで、この1週間は何かゆったりした気分で週末を過ごすことになった。1日の休日の日は、Pere La Chaise 墓地の写真を撮るべく昼前に行き、やはり、ショパンの墓を撮った。菊の花や、ローソクに火をともして飾られており、華やかであった。他のお墓もきれいな菊の花などで飾ってある。菊は、chrysantheme (クリザンテーム)と言い、英語でもほぼ同じつづりである。死者の花ということで重宝される日であるが、日本の菊花会などにもある花の大きな種類のものが3本60Fぐらいで売られていた。日本でもそうだが、なぜ菊は死者の花なのだろう?こかねぐさ、ともいう。これは、クリザンテームと同じ語源で、ギリシャの昔から黄金色の豪華な花、ということなのだろう。ここで、一歌。

ショパンに/朝会いに行く/トゥッサンの/いこも同じ/あのこがねぐさ

    オステリッツの植物園に行った。ダリアが寒そうにいっぱい咲いていた。この植物園の正面には、ラマルク像があった。その反対側には、背を向けてBuffonの像があった。あの博物学のビュッフォン。

    次に、夕方、14Juilletではじめて映画を見た。何でも良かったのだが、たまたま見たのは「Taxi blues」。前に、ラジオの日本語放送で話題になったものであることは、すぐわかった。会話はロシア語、字幕はフランス語と、よくわからなかったものの、フランス語でしゃべられるよりは文字のほうがわかる割合は高くなっているようで、すじは良く判った。カメラワークもなかなか面白い。アメリカ映画ばりのカーチェイスもあり、カンヌの監督賞を受賞したものらしい。予告で出てきたものだが、うれしいことに、117日から小栗耕平の「死の棘」が上映されるらしい。必ず見に行こう。

    10月31日には、エスパースジャポン(日本人向けの図書館、11区にある)に入会してきた。ここで、レ・ミゼラブルのIと、カセ・マデの最新アルバムのカセットを借りてきた。カセ・マデは、アフリカンポップスの雄らしいが、聴いてみると、なんと、そのリズムは、沖縄民謡にそっくり。弦楽器(ンゴニというらしいが)は、三味線に良く似ている。アフリカと沖縄、何か音につながりがあるのだろうか?

     土曜日には、パリの1700〜1900年代の歴史を調べてみたくなって、カルナバル館に行った。人権宣言の図や、1789年の革命期に見られた10刻みの(1から10までしか数字がない)時計など、歴史の資料が多くあった。しかし、パリコミューヌの部分は思ったより少ない。「パリ人は名誉のためには」人が変わったように戦う、とユーゴーが言っているように、この期間はパリ人の気持ちがそのまま現れた時代というべきかもしれない。

    2日の夜には、ムスタファ君をつれて「豊後」レストランに行った。久しぶりに本当の日本食を食べた。2人で400F。一応、満足。ご飯がおいしい。そこのオーナーは、臼杵出身の人がやっている。大分の出身の人が20人くらいパリにいるらしい。

11月18日(日)

     今週15日は、ワイン党が待ちに待った(だろうか?)日で、ボジョレ・ヌーボーが解禁(est arrive)となる日である。早速、アパルトマンのすぐそばのNicolasの酒屋で26Fのボジョレ・ヌーボー(B.N.)を買った。16日には、ラボのキャフェテリアが休業で、OlivieMustafaAlainJeanne-MarieClaudeと、近くのRes. Chinoi(中華料理店)に行き、Jeanne-MarieのおごりでVillageのついたB.N.を飲んだ。今回は、Villageのついたのも、付いていない普通のB.N.と風味などもあまり変わらない感じだった。アルコール度は例年より1〜1.5%ほど高いらしい。イチゴフレーバーで渋みは少なく大変飲みやすい。

     ボジョレは、ブルゴーニュ地方の南にあるが、フランスでは大して有名ではない。フランスの2大ワインは、このブルゴーニュとボルドーである。ブルゴーニュで有名なのは、1985,1983,1978年ものがうまいらしく、シャンベルタン、クロードベース、ミューズニィー、グロブージョ、ロマネコンティ、コフトン、シャルマーニュ、シャブリが有名。ここの赤ワインは、ジビネという狩猟用肉に合うということである。ロマネコンティは、1966,1969年ものが最高。白は、シャルルネーシュという独特のぶどうを使っている。ボルドーワインでは、マルゴー、ムートン、ラツール、オーブリョン、ムーリィストラックが有名で、また赤で魚に合うのはサンテミリョンらしい。今度は、ブルゴーニュのミューズニィを試してみよう。

11月24日(土)

     予定通り、20日(火)にOpera Bastilleに11時少し過ぎに行き、12月4日の分の「Otelo」のチケットを買った。この時、着いたときすでに120人くらいの人が並んでおり、日本人と思しき人も2,3人いた。CAT6と5で150枚ぐらいのチケットがあったので、たぶん悪くてもCAT5(100F)でいけるのではないか、と期待したが、そうは問屋がおろさず、20分ほどして約50人ほど進んだときアナウンスがあり、CAT5と6はcompliとのこと。では次に、CAT4(190F)はいけるか、と思っていよいよ番が回ってきて聞いたらCAT4も売り切れとのこと。仕方ないのでCAT3の370Fのチケットを手に入れた。日本でもこういうチケットを得るため並んだ経験が無く、馬鹿らしいと思っていたが、本当に聴きたいと思ったら徹夜してでも並ぶ、という気持ちもわかる気がした。確かに、ほんの1時間早く並ぶだけで200Fほどセイブできるのだから、やってみる価値はある。

     Olivieから、Le Nouvel Observateur 誌に日本の特集記事があったというので、その部分をコピーさせてもらって読み始める。「日本の社会は民主主義ではない」とあった。民主主義の発祥地の人たちから言われると考えてしまう。しかし、これは今始まったことではない。血と汗で人々が闘い取った民主主義と、日本のように戦争の敗北のおかげで転がり込んできた民主主義とでは、中身が大いに異なると感じられるのだろう。「民主主義らしきもの」はあるが、根底を流れる考え方は、非民主主義的なもの、それが日本の実情ではないか、という。しかし、その方が経済の発展にとっては有効に働いたのだろう、とも。ただ、ECAsiaUSAでさらに強力な経済の競争が行われ、日本の技術力が低下してきた場合、それは悲劇に変わる。西欧からは、それ見たことか、と思われるだろう。

     23日(金)の夜は、Mus君と20区にあるレストランでクスクスをたらふく食べた。これは、割り勘。バスで行ったのだが、外で待っているのは寒かった。ここ2,3日は最高気温が5℃という寒さであった。本日24日夜はまたBourre家におよばれ。野鳥の肉を食べさせてもらう。ミニテルで、Satoshinom(名)にもつ人は一人しかいないことを確認。しかし、パリのどこかにはSatoshiという名のフォトグラファーがいるという話である。

12月1日

     ちょうど折り返し地点にきた。あと3ヶ月である。

今週の11月26日、29日、および今日12月1日に予定されていたOperaBastilleの公演は、ストのため、中止。なんということか。12月4日のチケットはつかえると良いのだが。

     エスパースジャポンから借りてきていた「レ・ミゼラブル」の全巻を感動のうちに読み終わる。この本が書かれたのは、1862年で、それからまもなくしてパリコミューンの事件がある。どちらもペール・ラシェーズ墓地と関係がある。「レ・ミゼラブル」のジャンバル・ジャンが最後に葬られたのはペール・ラシェーズと書かれている。もちろん、小説の中でのことであるが。パリ・コミューンも、最後の白兵戦がコミューン兵士と政府軍との間であって、コミューン側が敗北し全員銃殺されたのもペール・ラシェーズ墓地の壁の前である。パリ・コミューンの思想の中に「レ・ミゼラブル」のジャンバルジャンの思想が入り込んでいはしまいか?コミューンが失敗したのは、その「お人よし」のためである、という考えもあるくらいで、ジャンのあの寛大な精神が、コミューンの人々の頭の中に入り込んではいなかったか?ビクトル・ユーゴー自身、コミューンの前後に共和主義者として政治にも登場してきた人である。

      12月1日は、日本人会の家電歳末大売出しの日である。10時半ごろ日本人会の事務所についたら、なんと、4階から下の入り口まで人の列。番号が429番、まあ、パリの日本人全員が来たみたいな賑わい。しかし、買うべきものは見つからず、おもち35Fぶんだけ買って帰った。高すぎる。

12月4日 “オペラ・バスティーユ 感動の3時間”

     1990年パリのバスティーユ広場にできた新オペラ座は、9月から新しい公演が始まった。楽団を率いる指揮者は、当年37歳の若き韓国人シェフ、ミュン・ウン・チュン氏(註:チュン・ミュン・フンと最近日本で呼ばれて、知られてきているようである。2001.2)、である。ようやく手に入れた370Fのチケットであるが、12月4日の予定日の前1週間楽団員のストライキのため、3回も公演が中止になっていた。その4日の日も危ぶまれたが、なんとか収まったらしく、幸運にも正常通り行われた。それまでプラシド・ドミンゴのオテロであったが、今回からコルネリュー・マーグのオテロとなる。4日の日は、コルネリューにとって初公演にあたる。時に、自分の論文作成の都合上、ジュシュー(パリ第7大学)の図書館で論文探しをしていたが、5時半ごろに切り上げて、いそいそとアパルトマンに帰り、シャワーを浴び、着替えて、急いでパンとミルクを押し込んで、バスティーユまで歩いて出かけた。外は、10〜15℃の寒さである。7時少し前に着いたが、人はそれほど入っていない。第1Balconに席があるので(2階席にあたる)、プログラムを60Fで買ったあと、係員の指示に従って、3番目に高い席に座る(値段が)。1Fのチップをそっと案内に渡す。舞台と席は、席がかなり前にせり出ているので、離れている感じはしない。楽団の演奏も良く見えるところである。日本円で1万円であるが、場所的には3〜4万円の感じではある。全体に円柱状に組み立てられているようで、丸みを帯び、やさしい感じのする内装である。午後7時半を過ぎた頃、客席もぎっしり人が入り待っていると、何の前触れも無く、突然室内は真っ暗に。舞台と、楽団員のところが少し明かりがある程度。そのまま1〜2分が流れたろうか。どこから聞こえてくるのか、風がヒューヒュー鳴る音が聞こえてくる。おや?と思っていると、巨大な幕がゆっくりゆっくりと重々しく上がっていく。舞台の上の、すばらしい装置と、人々が大勢いるのが目に入る。と突然、激しい音楽が始まって、はじめからクライマックスかのような演奏とともに、舞台の上では、20m近い上の天井から雨が激しく落ちていて、舞台の人々は歌いながら激しく動き回る。難破したベニス軍の帰還船を人々が引き上げる場面なのである。天井近くにスクリーンがあり、フランス語と英語の訳文が表示される。少々見えにくい。コルネリュウふんするオテロ(ベニス軍の将軍)のソロが始まって、3時間の長いオペラが開始された。声も良く響いて、テノールやソプラノの高い音は、耳にびんびん響いてくる。

 音楽の演奏のミュン・ウン・チュン氏の指揮もなかなかダイナミックで、小沢の指揮を思わせる。こうして、すばらしい音の空間の中を、劇は進行し、悲劇のストーリーが展開していく。内容は、オテロが、下僕のイアーゴの計略に乗せられて、デズデモーナと結婚するときではあるが、もう一人の下僕のカッシオがデズデモーナとただならぬ関係にあるという疑いを抱き、心の葛藤を繰り返しながら、ついには、妻になったデズデモーナを殺してしまい、自分も自殺するが死んだ妻にキスをしながら死んでいく、という筋立てである。愛と憎しみが交互に現れる、心理劇でよく知られた筋ではあるが、ダイナミックな舞台は大変面白い。特に、デズデモーナ役のカレン・エスペリアンのソプラノは、すばらしく、悲しみの中でうたうアリアのコロラトューラは、すばらしく良く抑えた調子ながら、よく響き長い長い余韻を味わわせてくれた。コルネリュウのオテロは、初めてのせいもあるが、少々硬い感じで、歌はすばらしいのだが、演技がいまいちであった。他の人々は、もう何回もやってきているので、自然なすばらしい声と演技を見させてくれた。2幕と3幕の間には、30分ほどの休憩があった。休憩のあとも、中だるみも無く、歌とオーケストラの緊張が続き、ぐーっとクライマックスへ向かう。最後の歌と演技が消え入るように終わって、突然沸き起こる拍手拍手の嵐。出演者みんなの挨拶があったが、やはりデズデモーナ役のカレンに対する拍手が一番大きかった。さすがである。

 終わったのが、10時半を少し回っていた。それから、感動で頬を紅潮させながら、アパルトマンまでの10分間を10℃ぐらいの冷たい風にあたりながら歩いて家路についた。歩いて帰れる距離にあるというのが良い。感動は、一人で歩いていると持続するものである。この時、車に乗ったりメトロで多くの人ごみの中に入ったりすると、本当に興ざめするだろう。帰って、りんごを一つかじってワインを少々飲んで、心地よく眠りについた。

 なお、日本人も5人ほど見かけたが、皆一番高い(520F)の席についていた。しかし、370Fでこのような感動を味わえるなら安いといって良いだろう。お金の問題ではなくなるが、それでもやはりお金の問題ではある。

12月16日(日)

     Beckmanの超遠心機がトラブって、仕事が中断した。それもあって、バーゲン中のデパートに行って、お土産用の買い物をすることにした。プランタンの中にある高島屋でいくらか調達する。自分用にLancelの旅行用バッグを買った。Republiqueのプランタンで小物を調達。27日以降は大バーゲンになるらしいので、そこでも少し調達予定。

  エスパースジャポンで、丸山圭三郎氏の「フランス語とフランス人気質」、ルソーの「人間不平等起源論」、ブルフィンチの「ギリシャローマ神話」、を借りてきた。「フランス語―――」の中の言語論は面白かった。フランス人の気質として、1.批判精神−議論好き、2.慎重さ、−節約、粗末にしない、3.小さくとも現実性のある夢を追う、−独立性、個人主義4.人生はゆっくり味わうべきもの、−食べるために生きている感じ、などをあげている。1.はうなずけるが、2.から4.も昔の日本は備えていたような気がする。それが、アメリカという大国が相棒になったおかげで、2, 3, 4 が次第に小さくなっていき、それと対称関係にあるように経済力が対外的にぐーんと強まった、と見ることはできないだろうか。ルソーの「人間不平等――」の中に、「自由というものは、あの実質的で滋味豊かな食物か、あるいはこくのあるぶどう酒のようなものであって、それに慣れている丈夫な体質を養い強めるには適しますけれども、それに合わない虚弱で華奢な体質を圧倒し、破壊し、酔わせるのです。ひとたび、服従に慣れた人民は、もはや主君がなくてはやってゆけません。束縛をふるい落とそうと試みれば、彼らはますます自由から遠ざかります。」とある。今の、ソビエトロシアの状況を言い得て妙である。また、ヨーロッパの思想、芸術の大きなバックグラウンドには、ギリシャ・ローマ文化があるのは言うまでもないが、それらを理解するうえでもこの神話は知っておく必要がある。この理解なしに、ルーブルの美術品に対する多くの理解はない。

12月25日(クリスマス)

    24日クリスマスイブ(la nuit de Noel)。この日は、ラボにもNolita初め何人か人が出てきていた。彼らは、年間休みは45日取れるので、30日は夏と、あと1週間づつNoelの時と、春にとる、ということらしい。Bourre先生も11時ごろから出勤で、やはり、忙しそうである。この日の昼食は、病院の前の中華料理店で35FMenu AA定食)を食べる。この時、たまたま同じテーブルに座ってきたのが日本人であった。聞いてみると、ジュネーブに2週間滞在し、その帰りにパリに寄ったらしい。モトローラ社の社員でアリモトさんという。プラモが好きでモデル屋を探しているとのこと。さらに聞いて見ると、福島の会津出身ということ。私も福島出身だ、といってお互い非常に愕いた。何たる奇遇。この前の、高島屋の店員さんといい、東北出身の人に会う確率が高すぎる。しかし、この北駅あたりは日本人は少ないので、ほとんどそういう日に会うことは無いのだが、何かの縁かもしれないと思った。彼は、英語で注文していたが、最後にミルクを注文するの時にMILKと言っても店の人には通じない。小生が「レ!」と言って助けてあげたが、もし、彼が一人のときはどうしていたのかと思う。店を一緒に出て、モデル屋を探してあげた。

 この日は、Bourre家のディナーに御呼ばれ。例のGIFTSをあげる日である。ご夫人のご両親も来られていたが、地味なパーティである。料理は、えび、かに、コキーユ、サラダ、チーズ、チョコレート、とクリームであった。カニはおいしかった。しかし、味付けはいかにもフランス風。小生もプレゼントをもらい、フォアグラなどのサンドイッチ用のペーストの缶詰であった。Bourre家には、人形、羊羹、ほうじ茶、写真と、子供たちにはシャープペンシルをあげた。彼ら同士は製本した本を贈ったりしていた。本の飾りというのは、どうも彼らには素敵なことらしい。

 24日の夜から、教会ではずっとミサをやるらしく、夜中のスケジュールもずっとあるらしい。日本の元旦の初詣の感じかも知れない。25日の朝10時ごろ、バスチューユの方に歩いてみたが、本当に元旦の朝のような、気の抜けた、人通りの少ない、まだ皆ねむりをむさぼっているような、ぼーっとした朝であった。飾りつけもあまり派手ではなく、シャンゼリゼにいけば別だろうけど、どうということは無い。それもそのはずで、パリの中は、今、300万人が田舎に帰っているのだから。いるのは、お店の人と、観光客と、我々のような"外人たち"である。

12月30日(日)

     いよいよ1990年も、残すところ後1日となった。24〜29日の間に、再びOpera B.に行き、1月10日のチュン氏のコンサート(Mozartのジュピターなど)のチケットを50Fで、ムス君の分も入れて2枚手に入れることができた。しかし、オペラとは違って、このコンサートのチケットは、かなり簡単に手に入れることができた。10時に行って並んだが、2,3人しかいなかった。オペラはあきらめたほうがよさそうである。1月8日の「フィガロ」用に、25日10時前に行ったが、すでに100名以上いて、一人が2,3枚買っているのでどうしてもカテゴリ6や5は不可能だ。2時間以上寒いところにたっているだけの熱意も無くなったし。

     この週は、SOLDES「大特売」の時期なので、2回もPrintempsに行った。いくつか、お土産用のものを調達した。La Villetteや、LouvreLe HallesRodinなどにいってまたお土産用の品物の調達。何か、日本人らしく、お土産をそろえるのに汲々としているようで変な感じであるが、これは日本人だけの習慣ではない。

     しかし、これは、共同体意識の強い日本人が、一種の潤滑油として考え出した習慣で、歓迎会や歓送会などは東洋人が強く感じるやり方かもしれない。少なくとも、ここBourreの研究室ではそれらはやったことが無い。なぜ、「単一民族」と一般に考えられていて同族意識の強いところにそういう習慣が発生して、色々な民族の混ざり合ったフランス人では少ないのか。単一民族であれば、そのようなことをする必要が無いくらいではないか?しかし、むしろ、逆なのかもしれない。大陸的な所、即ち異民族が容易に混合しやすい場所では、異なるがゆえに「引き合う」、とも考えられるので、いちいちパーティやら、お土産やら、とやらなくても、必要に応じて共同体Communeが出来上がる。しかし、孤立した単一民族の場合、同じであるがゆえに「離散しやすく」、意識の上でつなぎとめておくべき何かが必要になるとも考えられないか。さらに進んで、フランス人と日本人の性格の差異は、帰するところ、狩猟民族と農耕民族の差に由来すると考えられなくも無い。しかし、よく言われていることで新しいことではない。不思議なのは、なぜ狩猟民族に強い個人主義→民主主義が生まれたのか、である。日本は、強い個人主義思想が無かったために、本当の民主主義は育っていないのではないか。育ち得ないのかも知れぬ。日本が、何十年後かに多民族がうじゃうじゃいるようになった場合、本当の民主主義が育つのかも知れぬ。いや、あるいは子供の教育に問題があるのか?欧米のように極端な言い方をすると「子供は人間と思うな」という育て方をして、早く一人前にさせることによって強い個人主義は生まれるのか?頼るものは自分以外に無いのだ、ということを知らしむることが必要なのか?ヨーロッパでは、違う「個人」のもっとも親密な関係を持てる場が家族であり、日本にあるような甘えた親と子ではなく、違う個人として扱うこと、これが早く子供の心を大人の心に変化させていく方法である。しかし、そこには冷たさは無い。違う個人の親密さを増す方法は、何よりも言葉によって心をオープンにすること、語らいこそが「働く父親の後姿」以上に重要である。特に子供にとっては。親子で意見を戦わせること、理性的にその訓練をすること、そう、これは意識的な訓練なのだ。Bourre家の人々を見てそう感じる。

     日本には、個人主義の発生はなかったのか?鎌倉時代にあった、という話がある。自我の確立を目指した武士の集団。北条時頼や御成敗式目(1232年)は、そのそのあらわれだったという話が面白い。

1991年1月1日〜6日 (旅行特集)と大晦日(St.Sylvestre

     1月1日10時リヨン(パリ)駅発のTGVの中でこれを書いている。Grenoble行き、U君(現・名大理)のところにまず行くことになる旅の始まりである。その前に、12月31日、大晦日の日は滅多に無い経験をした。その日は、午後2時ぐらいまでラボにて用事をまとめ、ムス君とその夜の打ち合わせをした。Cite de Universite の彼の仕事をしているMaisonで、他のモロッコ人と一緒にパーティをするから、7時ごろその建物に来い、とのこと。それで、午後はアパルトマンに戻って色々用事を済ませ、5時半過ぎにメトロの2番とRERCite Universiteに行った。この時は、夜メトロとRERのストがあるとは思わなかった。まず、地図で日本館を確かめ、行ったがFerme。しかし、中にいくつかの明かりが見え人はいる模様。6時半ごろ、予定の(メルセデスの広告塔のある)Maisonに行ったら、運良くムス君がRSCにいた。中を案内してもらったが、バストイレは共用。部屋は一応、ダブルベッドと机と棚が置いてあり、洗面所はある。クロゼットもあり、別に共用の調理場もあり、中国人と思われるカップルが料理をしていた。月1200Fとのこと。8時ごろから、そこの受付アルバイトをしている彼の友人と、もう一人、Virology専攻のモロッコ人の友人とともに、4人で彼らの宿直室で「パーティ」を始めた。まず、ビール、それから、鯛の蒸し焼きでトマトの味付けで食べる。味は薄い。これらは彼の友人の料理であるが、塩味をあまり使っていない。次に持ってきてくれたのが、ムトンの料理で、豆とトマトとにんにくを水を使わず煮込んだもので、タージンという料理である。おいしい。とろ火でゆっくり煮込んだものである。これを、パンを小さくちぎって、そのタージンの中のものを指でもってパンではさんで食べていくのであるが、彼に言わせると素手にとって食べるので熱くないところがわかって、食べるときは良い温度のものが食べれるようになるのだそうだ。手は相当にぐじゃぐじゃになる。しかし、やはり違和感があってうまくとって食べれるものではない。この後、りんご。さらに、ビールとポルトガル産のあまいワインを飲みながら、テレビのコミックショーを見る。この辺は、日本での過ごし方と似ているかもしれない。彼から、アラビア語の書き方を少し習ったが、かなり論理的である。ハングル文字と似ているかもしれない。最近、アルジェリアでフランス語が公的なところから追放されつつあるらしい。ムス君に言わせれば、英語が主流なのだからもっともなのだそうだ。

もう一人のモロッコ人は、アメリカは歴史は無いが技術はある、しかし、日本には両方ある、といってほめていた。この辺の感じ方は、フランス人も大体考えていることのようだ。

     そうこうしているうちに11時近くになってきて帰ることにした。ムス君ともうひとりが見送ってくれた。RERの乗り場まで一緒に行って待っていたが、いっこうに列車が来ない。どうもストらしい。30分待って来ないので、メトロで行くことにしたが、10〜15分歩く必要がある。一緒に急ぎ足で歩いていったが、途中バスがきたので乗ってメトロまで来た。そしたらたくさんの人が待っている。何かと思ったら、なんとメトロもストなのだそうだ。参った。タクシーもなかなか拾えない。バスの連絡もわからない。明日の朝は旅行に出ないといけないので必ずアパートに戻る必要がある。彼らが一生懸命タクシーを拾ってくれていたら、ようやく12時少し前につかまった。他のおばさんと一緒に乗り込む。そのおばさんもRepubliqueの方に行くのだそうだ。彼女は「私が先に手をあげたのに」と怒っていたが。乗って、ほっとしていたが、途中St.Michel広場の横を通ったらすごい人の波。なかなか車が進まない。爆竹は鳴らされるし花火はたかれるし、運転手は頭に来ているらしい。そのうちようやくそこを過ぎて、Pl. Leon Blumへ向かうかなりの人が出ていて、メトロがないせいかタクシーを拾おうとしている人が多い。Placeに着いて「2人分」といって100F渡した。実際は、60F。運転手も喜んでいた。教訓1.大晦日の夜は外に出ないこと、教訓2.持つべきものはよき友人。何とか九死に一生を得た。91年はたぶんきわどいところでうまく渡っていける気がした(最善を尽くせば)。

     12時半ごろ、部屋に着き、日本に電話してBonne Aneeを送った。

     今はもう、TGVは300Km/hぐらいで走っているが、この字が書けるくらい揺れは少ない。乗り心地は日本の新幹線よりも良い。一つの流れに身を任せるのも一つの生き方ではある。

     1月1〜4日、GrenobleU君のところに厄介になる。郊外の山の下にある大きな庭のある家で、彼のBossPhillipeがパリに行っている間2月下旬までそこにいるらしい。しかもただで借りているというのだからすごい。そういうフランス人もいるのだ。少し、根雪の残る庭だが、りんごの木、胡桃の木など、何本も植わっており、人に貸さないとあとの手入れは大変であろう。彼のところに車で着いて、T君(2歳)も奥さんも元気そうだ。まず、アルプスの方に見える雪を頂いた山々(3千メートル級)が大変きれいに見える。ベランダが広く、ピクニックテーブルがおいてある。アメリカでの生活のようだ。そこで、お茶を飲み、そばを作って食べた。そばや、酒、あずき、もちは、パリから持ってきた。すばらしい山の景色を眺められるだけでも満足である。4時ごろまで外に居れるくらいの暖かさである。夜は、お酒を飲んで新年を祝う。2日は、雨で、市内見学。美術館と、ドフィノワ博物館に行った。人はさほど多くなく、よくまとまった面白いところである。昼はセルフサービスのところで食べる。よく皆からボナペティを言われる。パリでは、言われたことが無い。

     3日は、すばらしく良く晴れた日になった。10時半過ぎに、まず市内にある、St. Laurant教会を見に行く。フランス最古のキリスト教建築のあるところで、色々発掘調査が行われている。3世紀ごろからの建物の上に、だんだん新しい時代とともに、増築がなされたものらしい。よく晴れているが、かなり冷えている。11時半過ぎに、次の目的地、Perugeの町に行く。Grenobleから2時間のドライブである。「三銃士」の映画のロケに使われたところだそうだ。昔の中世の頃の家並みが残った、小さな町である。長く丸い石を積み上げて作った家々と道が、昔への思いを誘う。2時少し前に、町の入り口のところのレストランで焼き肉料理を食べる。石盤焼きである。馬肉、牛、鶏肉を食べる。柔らかくおいしい。石を集めてくっつけて建物を作るのはギリシャの昔からあるが、ここは自然のままの切り込まない石を用いていて、素朴な感じが良く出ている。帰りは、5時少し過ぎて、少々暗くなりかけた田舎道を走らせる。標識は判り難い。

     4日は、彼らと別れて、Grenobleから、Lyon経由でNiceへ行く。TGVといっても、この辺は遅い。南仏らしい、明るいピンクがかった家々がマルセイユあたりから多くなる。ニースでは、降りてすぐホテルへ歩いて向かう。ニースは観光地のせいかよく英語が通じるようだ。5日、ニースの海岸の良く見えるシャトーの上の公園でこれを書いている。よく晴れ上がった上天気で、一人で眺めるのがもったいないくらい見事な地中海の眺めである。残念ながら、この素晴らしい雰囲気を表現できる言葉を知らない。あたりは、風もごくわずかしか吹いていないで、のどかで、天使の腕に抱かれた湾の波も、春のようなのどかさで、遠くに見える雪を頂いた山々も、こののどかさと良いコントラストをなし、地中海は淡いブルーで、のどかにヨットが漂っているのが見え、パリの暗い冬の天気とは天国と地獄ほどの大きな差に見え、、、、うぅ、表現尽くせない。

             小春日の/ニースの海/言葉なし

     1時間以上いて、次に、シャガール美術館、ローマ時代の円形闘技場、共同浴場跡、などを見て回る。これらは、高級住宅街の一角にある。2時からしかオープンしないので、日向ぼっこをしながらこれを書いている。シャガール美術館には日本人が10人くらいいた。病院も昔の宮殿を改造して造ったものらしく、えらく立派である。4時ごろ、歩きつかれて、ホテルに戻り、少々居眠り。夜は、Chez Michelというレストランで食べる。英語が通じる。日本の案内書でも紹介されているからか、他にも2家族の日本人が食べに来ていた。鯛の料理を食べた。少々酸味がある味付けで、よく合っている。目の前で、小骨をうまく取ってくれて、だけより分けてくれる。

     6日は、10時発のTGVでパリに戻る。駅の中にはサンドイッチは売っていない。その前の店でサンドイッチと水を買って乗り込む。人は少ない。すべて1等車である。1coachに5〜6人、途中カンヌあたりから多く乗ってきた。シートは本革の肘掛もありデラックスである。ニースではサントンのお土産を買った。あっという間のニースでの2日間であった。本当に良い気分になった。パリが近づくにつれ、天気も悪くなった。

1月13日(日)

     この1週間は、南仏から戻って、もうその翌日からフル回転の仕事の日々になった。体調が悪い。口内炎もできた。また少し、風邪も流行ってきているので要注意。

  火曜日に、久しぶりにエスパースジャポンに本を返しに行き、また新しいのを3冊借りた。西尾幹二の「ヨーロッパの個人主義」と萩野「日本人とフランス人」、それとユーゴーの「死刑囚最後の日」。日本の年末の新聞も読んだが、たいした記事も無く、忘れてよいものばかり。改めて、今まで日本でどうでも良いことに、自然と関心を持っていって時間を浪費していたのかと思う。パリですら、時間のたつのがゆっくりとしていて、もともと日本人よりアグレッシブで感情的な人々なのに、なぜこうもゆったりと時を過ごして居れるのか。

     とにかく、今週は10日に予定通り、ムス君と一緒にOpera Bastilleでコンサートを聴いた。G4という席からであったが、オーケストラは良く見えるが、舞台は少々見づらい。この演奏で見る限り、チュン氏の指揮ぶりはさほどダイナミックという感じではなく、むしろ神経質な感じを持った。むしろ、オーボエ奏者(ソロ)のフランソワ・ルルーの演奏はなかなか聴き応えが合った。アンコールが1回あった。これなら、やはり、少々高い金を払っても良いシートからオペラを見たほうが良いかも知れぬ。

     土曜日には久しぶりに散髪へ。また、東京堂で雑誌「世界」のアラブ問題の特集を立ち読み。夕方は、Bastilleで「La Discrete」の映画を見る。理解しにくい映画であったが、バックミュージックのピアノの曲が良かった。終わって出たら、Bastille広場はデモの人たちで一杯になっていた。

     この1週間は、気分的にはイラクとの戦争の問題が、どうなるかということへの関心が高かった。日本にいたら、これほど強く関心を持つことは無かったかもしれないが、ヨーロッパではいつも戦争と隣り合わせ、ということなのだろう。Bourre先生も言っていたが、パリの街はアパートの地下には部屋があり、その部屋は隣のアパートとは区切られていて出て行けないが、それでもうすい石で隔てられているだけなのでハンマーでもって叩けばすぐ破れて、地下はすぐつながるのだそうだ。パリが空襲されても、地下に潜って色々行けるのだそうだ。イラクとの戦争については、「世界」の評論記事が納得できるもので、戦争が起こったら、誰が一番喜ぶか。アメリカの石油産業(Bushもテキサス出身)だ。今までの石油の値下がりで、アメリカの石油が売れなかったので、戦争で石油の値段が跳ね上がれば再度アメリカに石油ブームが沸くというわけで、Bush大統領がイラクのクエート侵攻を事前に知っていても、何も手を打たなかった理由とも結びつく。ムス君も言っていたが、イラクとアメリカには利益になるシナリオがあるらしい。イラクは戦争でもしないと国内の矛盾をそらせられないのだ。フランスを始めヨーロッパの方には戦争せざるを得ない事情は差し迫ったものではない。もっとも、長期にイラクが強くなっていくとアラブは固まっていき、アルジェリアなどを含めて強大なアラブ圏のまとまりができてしまい、ヨーロッパ経済にとって恐ろしいことになる(Bourre先生の言)、と考え、まとまりを阻むためにフセインを叩かないといけない、と考えているふしがある。イスラエルは強力な力を持っているので、アメリカもコントロールできないので、この戦争を機に、イスラエルの力をコントロールできるようにしたいとの考えもあるのかも。すると、できるだけ死者をださない戦争(局地戦)を長期に行うと(2ヶ月以上)最も良くなるのはアメリカで、いずれこの国際包囲網の下ではイラクはクエートから退く以外に無いので、アメリカやフランスなどEC軍にも多少の犠牲は出るだろうが、長期的には戦争はプラスになるという考えがあるのだろう。しかし、この戦争で、マイナスになるのは第1に、日本の経済で、混乱は必至である。第2に、ドイツは大きくは無いが、マイナスになってくるので、今の国際経済の流れが少々変わる。もし、戦争が無く、あるいは短期的に解決されたら、アメリカの退潮は加速され、世界経済の基調も変わらないだろう。しかし、始まったら短期で終わるのだろうか。

1月19日(土)

     今週は、予定通りというべきか、16日にイラクと国連軍との戦争が開始された。

  第1回の空爆は、アメリカ軍の「トルネイド」で行われ、かなり成功を収め、そのせいか、石油も1バーレル20ドルを割り込む展開となり、各国は楽観的であったが、18,19日と2回もイラク軍がイスラエルへミサイル攻撃を行って、一転戦局は最悪のシナリオに向かいだした。戦争はすぐには終わらない状況で、19日には円が安くなってきた。

  予想だが、2週間以内にサダムが降伏すればEC側の思惑通りで、世界経済の流れは日本とECが強くなり、アメリカの退潮は止められないのではないか。しかし、それ以上、1ヶ月ぐらい続けばアメリカのシナリオ通りで、石油価格高騰は避けれれず、日本、ECへの打撃は大きい。アメリカは経済の建て直しが行われる。しかし、こうなると、イスラエルとアラブ諸国との戦争も起こる危険も増大し、1ヶ月〜2ヶ月以上になると最悪のシナリオへ突入する可能性も無いではない。

  まあ、なるようになる。ここ2,3日は研究室では、ニュースのラジオ放送でうるさくなっている。パリ市内の中心部では自動小銃を手にしたポリスが立っている。SMITHの本屋やLaVilletでさえも、手荷物検査が行われている。パリは戦争の状況に敏感に反応し、人々の心もざわついているようだ。

  なお、エスパースジャポンで借りた2冊は大変面白かった。西尾氏の「ヨーロッパの個人主義」は、なかなか含みのある哲学書で、思っていた疑問がかなり解けた気がする。彼もドイツに留学し同じことを思ったに違いない。ヨーロッパの個人主義の起源は何か?である。ヨーロッパ的特性と対照をなすのが日本的特性である。ヨーロッパの個人主義は、その多様な民族、中でもラテン、ゲルマン民族の持つアグレッシブ性を基幹とし、そのような民族同士の摩擦を通して得られた知恵であり、絶対神のキリスト教が広く深く成功したのも、そういう個人主義、自分と他、自分と神とを的確に区別し、決定する能力の基盤が在って成立しえたのである。日本的特性は、おだやかな民族性を基幹とし、他民族とのまさつのあまり無い歴史的状況で生まれ培われてきた性格で、徳川300年の鎖国で一層強められたのである。しかし、基幹となる民族的性格の差は小さいものであって、ヨーロッパが53%アグレッシブであれば、47%はおだやかさを持っているものであって、日本的なものはただ53%がおだやかで47%がアグレッシブなだけであるように思われる。これは、個人の内面を見れば、その割合は、たえず変動するのに気づき、したがって基幹となる遺伝的な民族性の差はさほど大ではない。むしろ、歴史性がその性格を大きく決定付け、教育が、さらにその性格を継続させたのである。

  今、世界経済はボーダーレスであるという。このことは、日本のように他民族との差を肌で感じてこれない国民にとっては、裏がえして、他民族をより近くに感じ「まさつ」を起こしつつある状態と考えてよい。ヨーロッパでは、多民族のまさつが紀元前からある中で、彼らのほうが今の世界の状況との付き合い方の上では戦略の立て方で優れていることは認めざるを得ない。日本が世界政治のうえでは、すみに置かれ、対等に、互いを認め合ったうえでの話し合いが持たれないのはやむをえないのではないか。今、地球規模で、かつてのヨーロッパのような多民族共同体或いは共同すべき状態にあるわけで、徐々に日本的特性も変化する。西側と日本ではまだ大人と子供の差である。いずれ、本当に対等になったと考えられるようになるには、もっともっと「まさつ」が大きくなり、実際に日本の中に多民族が今の2〜3倍入り込んで、生活しうるようになった時が、出発なのだ。あと100年はかかるのではないか。

1月27日(日)

     いよいよ、パリ滞在もあと1ヶ月残すのみとなった。イラクとの戦争は長期化の様子が強くなっており、油まみれの戦争になっている。石油priceはじわじわ上がっているが、アメリカ国内の経済状態は回復の兆しが見えないので、ますます長期化して日本やドイツの経済力を使って、アメリカ国内の軍事的経済的活性化を目指しつつあるように見える。日本は90億ドルの援助を決めた。こんな話題ばかりなので、しばらくこの話題を考えるのはやめたい。

  しかし、パリの街も、リベラシオン社(一応左翼系らしいが)が爆弾テロを受けたりしているので(3区)、外歩きも面白くない状態である。Museeや映画館などもびくびくしながら行かないといけないし、困ったものだ。

  またエスパースジャポンから新しく借りた中根千枝「タテ社会の力学」などを読む。他に、「日本人とイギリス人」「レバノンからの証言」。イスラエルの状況についての歴史的解説の詳しいのが読みたかったが適当なのが無かった。

  「タテ社会」論は、今からはだいぶ前の理論ということになるが、今読んでも大変面白い。日本社会を小集団の連続体としてとらえるところは、いろんな現象の理解に役に立つ。しかし、これが日本の「社会の遺伝子」的にもっているものなのかどうか。例えば、戦国や鎌倉・室町のころの武士団にもあったのか、またこれからボーダレス社会になってきたときに、他民族との協合の中で変わってこないのか、など?はある。細胞社会の「ことば」を理解しようとしている我々生化学研究者にとって、このような社会理論は大局的に把握していく上で助けになるかもしれない。

23日(日)

     あと4週間で帰国、という段階になった。

  1月31日〜2月2日まで、Bordeauxに行った。Dr. Cassagneの研究室でセミナーをするのが目的。31日夜、モンパルナス駅からTGVで3時間の小旅行。しかし、途中は夜のため何も見えない。向こうに着いたら、9時半。それから、Marie-Loureの幼友達というFrancoirsDr. Cassagneのところの助手)の家でDinner。ご主人は皮膚科のドクター、家が診療所になっている。といっても、日本のように大きな看板は出していなくて、小さな表札にDr.○○と書いてあるだけである。小さな人で、面白いドクターである。ホテルはBordeauxの真ん中にあるHotel du Normandi でカンコンス広場のすぐ近くで、すぐ隣にワインセンターもある良いところである。

  2月1日の朝、9時にDr. Cassagneにホテルからピックアップしてもらってラボへ行く。大変ダンディな紳士である。英語も上手にしゃべってくれる。ラボでも主要な3人のドクターと仕事の話をする。なかなかユニークな人たちで頭も良い。日本的な規模であり、彼らもアメリカの研究者とよく共同研究をしている。セミナーは、11時から30数名が集まって、その前で話をした。スライドがよく途中で止まってうまく動かない。しかし、適当にジョークを言いつつ何とかこなした。12時半ぐらいまで話をして、それから30〜40分質問があった。皆良く質問する。「あなたは○○と考えたが、私は□□と考えて良いと思うがどうか」という類の質問が多い。よく考えた質問が多いというのは、よく勉強してくれているということと、話の内容が質問を誘いやすい内容だからだろう。

  昼は、5人で近くのレストランで食べる。Gizzardがたっぷり入った前菜はおいしかった。午後は、Dr. CassagneFrancoirsと一緒に色々とお話。5時前に30分ほど図書館で過ごしたが、生化学領域の分野で必要なものはほとんどそろっていて非常に適正な規模で、適正な図書である。CD-ROMMedlineCurrent Contents両方あるのでGood。ここでも、パリの図書館でもそうだが、皆Journalは製本していない。何冊かまとめて箱に入れてあるだけ。確かに、製本だけにお金をかけるのはもったいないし、コピーするとき製本してあるとやりづらい。そのかわり、別の方面(CD-ROMなど)に回したほうが良いかもしれない。

  夜は、いったん夕方ホテルに戻り近くを散歩しワイン店にいってマルゴーのワインと、栓抜きを買った。8時ごろからDr. Casssagneの家でおよばれ。彼は、見事な絵も描く。ダンディなはずだ。ワインを二回味わう。

  翌日は、Bourre夫妻とFrancoirsの案内で観光、ワイナリーに行った。ぶどうの木は、地面から大人の腕の長さぐらいの高さの木で枝を1本に剪定してある。Graveの土地で、白ワインを買う。日本とも取引があるらしい。ワイナリーでの試飲は、大変おいしい。午後3時30分のTGVでパリに戻る。

2月9日(土)

     今週は、Dijonにセミナーをしに行った。そのおかげで、風邪を引いてしまった。もっともこれは、いくつか理由がある。

  8日朝7時半ごろ、Bourre先生と一緒にGare de Lion まで-10℃ぐらいの外を20分ほど歩いて行って汗をかいたのが第1の理由。彼の体力とは比較できない。次に、TGVで、LinMichelEmille3人と落ち合って一緒にDijonに行ったのだが、外は一面の雪景色。フランスでの車窓から見る初めての雪景色であった。TGVの中が暖かく気持ちがいいので少々居眠りをしたのが第2の理由。Dijonに着いて、Dr. Bezardの車で6人が乗ってブルゴーニュ大学の理学部生物学科に着いて、すぐに45人ぐらいの学生や研究者を前にしてスライドとOHPでもってセミナーを1時間20分ほど行なった。質問は、ボルドーのときよりは鋭いものは無かったが、生物学科らしく、agingや人間ではどうか、などの質問があった。これで少々のどを使いすぎたのが第3の理由。次に、INRAの研究者とも連れ立って郊外のHotel&Restoの中で食事をした。ブルゴーニュらしくescargoが出て、おいしいソースの中で料理してあった。その前に、キール酒を飲む。Blackカシスの実のクリームを白ワインで割ったものだが、大変おいしい。ワインは白。しかし、味はさほどではない。ボルドーのほうがおいしい気がした。魚料理であった。DessertBlackカシスの入ったケーキを頼んだ。チーズのときに、赤ワインが配られた。ここで割と酔った感じになった。レストランを出て、皆はINRAのラボへ。私はDr. Bezardの車で市内の美術館へ行って下ろしてもらって3時ごろから見学した。小ルーブルと謂われるだけあって、見ごたえがあったが、中は寒かった。休むところが無くて、ここで少々疲れたのが第4の理由。TGV6時半発で、だいぶ時間があったのでGareに行って予約を変更しようとしたが、一杯。金曜日の夕方はパリや地方に帰る学生たちやビジネスマンたちでごった返していた。また雪でぐしゃぐしゃになった歩道を歩いて、たぶん0℃ぐらいの外の温度だったと思うが、Notre-Dame教会の見物をして中に入って少々休む。ステンドグラスはとても美しかったが、中はとても寒かった。近くの本屋でかねてから探していた子供用のフランスの歌の本と、ジャズピアノの楽譜を買った。全体的にこの町はこじんまりとしていて、プティパリと呼んでいいような雰囲気をもっている。また寒い中を歩いて駅へ。少々待ってTGVへ乗り込む。パリへ向かう途中、列車の中では鼻水がどんどん出てきて、いよいよ風邪になったという感を深くした。パリの部屋についたのが夜9時過ぎ。ラーメン食べてシャワーも浴びずに寝た。

217日(日)

     湾岸戦争は、サダムフセインが虫のよい提案を出して、停戦に持っていきたがっているようだが、他からは相手にされていない。うまくソ連が調停をやってしまって、クウェートから撤退させ戦争を終結できれば、アメリカの立つ瀬がなくなるのだろうか。政治的駆け引きが目に見えるようだ。

  今日は、天気も良かったので部屋の掃除をしてから、2時過ぎに今回最後のルーブル訪問をした。予期に反して、すごい人の列であった。日本人も割りと見かけた。アメリカ人が多いようである。今や、ニコンの良い一眼レフのカメラを持ち、ソニーのハンディカムをもってあちこちとりまくっているのは日本人ではなく、アメリカ人のほうである。日本人は高級なバカチョンカメラを持っている。

  50分も並んで中に入った。今まで割りと素通りしていたバビロニアやアルカイック文明、エジプト文明などのコーナーを丁寧に見た。今、戦争になっているバグダットの少し南がバビロニアの都市で、フセインと連合軍によってこのあたりが破壊されているのかと思うと、複雑である。しかし、これらの展示品も、かつては戦利品としてフランスなどに持ち帰ったものであるから、中東から西洋の国々では戦争が日常化してしまっているので、さほど特別な感じ方もせずに政治の駆け引きの一こまとして、あっさりと取られるのかもしれない。バビロニアの楔形文字やエジプトの鳥をかたどったりしている象形文字などは、起源が異なるのを改めて認識した。自由の女神のもとになっていると思われる、太陽の神の頭部分がローマ時代のカイヤに見つかっているのを見た。

  これでルーブルを見残したところは無くなった。

2月24日(日)

     パリ滞在最後の週となった。秋の夕暮れのごとく、最後の1ヶ月はあっという間に過ぎてしまった。21日には、研究室の皆の前でセミナーを1時間ぐらい行なった。セミナーを終わった後、シャンパンを囲んでの、僕の送別会とあいなった。あとで、ムス君に聞いたら、今までセミナーのあとでシャンパンを抜いたのは初めてとのこと。Bourre先生も力を入れてくれたみたいだ。セミナーの開始時間もほぼ定刻どおりだったのも異例らしく、人の集まりも良かった。ただ、話が終わったあと、質問は出ず、Bourre先生が話の背景を再度フランス語で講釈しただけ。私は英語でやったので、質問しにくいのかも知れない。また同じ分野の人がいなくて、同じ仕事をしている人はフランス語しかしゃべれないシャイな人たちだから、仕方ないかもしれない。

  金曜日には、ムス君と一緒に、久しぶりにカルチェラタンの例のギリシャ料理店に行って、またおなか一杯食べてしまった。ワインも2本飲んで。ギリシャの白ワインで独特な味がある。シンナーみたいな変なフレーバーなのだが、となりのフランス人はおいしいと飲んでいた。ムス君がどうぞと薦めたのである。

  湾岸戦争は新たな段階に入った。ソ連とイラクとの和平調停はアメリカによって蹴られて、昨日の夕方6時のタイムリミットにクウェートからの退却が無かったので、結局地上戦がアメリカ、国連軍によって引き起こされた。やや、泥沼化しつつある。どうせ、勝てるとわかっている戦争をアメリカが中途で終わらせるはずが無い。続けるのは、アメリカにとっては良い経済効果があるのだから。ただ、ECや日本にとっては、しだいにボディブロウが効いてくる。2〜3ヶ月の長期戦だからシナリオ通りというべきか。

  今週は忙しい。ガス電気、税金、電話、銀行の処理のためだ。Yamatoに引越しの手続き。エスパースジャポンの退会手続き。INSERMにレポート提出。

  24日午後は久しぶりにシネマを見に行った。Aliceである。面白い映画であったが、アメリカ映画である。でも寅さんの映画の感じでもある。終わって、バスチューユまでのロケット通りを通るのも最後かもしれないが、新しいマンション風のアパルトマンが建ちつつある。まもなく、ここも様子が変わるのだろうか。

3月2日(日)

     予定通りのスケジュールで、帰国の途について、今、エールフランスの機上でこれを書いている。モスクワを飛び立って10分後である。この日は、やはりジンクス通りすんなりとは行かなかった。ドゴール空港ではBourre夫妻が見送りに来るはずだったが、車のバッテリーが上がって来れないということで、会えずじまい。ムス君は来てくれたが。飛行機も、1回予定より10分遅れて飛び立ったものの、30分ほどしてエンジンの1つから煙が出ているとかで、パリに引き返し、結局2時間遅れて飛び立った。また、モスクワでは機材の積み込みに手間取って結局3時間少々遅れている。午後1時に成田に着くことになるらしい。

  3月1日の夜は、あの住み慣れたアパートを離れ、ムス君の小さな部屋に泊まった。彼は、そのときCampusでアルバイトでいないので部屋を貸してくれたわけ。不思議とよく眠れた。セーターやラジオなど、いらないものを彼に提供した。

  イラクとの戦争は、2月27日、アメリカが勝利宣言をしたことで、停戦となった。1ヶ月と少々の短い(?)戦いで済んだようだ。ムス君は「サダムは腹切をしなければならない」と怒っていた。アラブやパレスチナには何ももたらしてはいなかったようだ。機内で配られた、朝日新聞2日版によると、アメリカに復興特需がきて景気が良くなるらしい。戦争も、他人のお金でできたので、アメリカの思惑通りに進んだようだ。日本も、金融バブルがはじけているので、政治的にうまく動かないと下降していかざるを得ない。

  と、まあ、今回のパリ滞在は、湾岸危機とともに始まり、停戦Gulf Paix とともにパリを離れたことになり、何か因縁じみている。その間、肌で戦争当事国フランスの状況を感じ取れたことになり、意義はあったかもしれない。まわりにはアラブ人は多いし、疑心暗鬼の状態というのは、普通はなごやかにしていても、少々違う状態になると、サーっと変化するものだな、というのを感じた。ただ、戦争の本当の怖さを知ったわけではないので、本心は楽天的なものだったが。

  今回の滞在は、仕事の上では75点、他の点については90点の採点、かな?

(終)

 

*日記から抜粋し、入力し終わって感じるのは、この湾岸戦争を境に、経済的にはアメリカの一人勝ちや、日本、ドイツの下降、EC統一へという流れへ動き出していたんだ、ということが見えてきたことだ。当時戦争に参加した兵士たちの間には湾岸戦争症候群という名前の病いが現在出ているという。戦争は何かしら引きずるものだ。あの時パリで感じた、毒ガス攻撃の恐怖。冗談ではなかった。日本にいたら、他人事としか感じられなかったに違いない。テレビゲームのような戦争、と謂われたそのときの感情の鮮明な記憶を持っている日本人はどれほどいるだろう。ほとんど記憶に残っていないのではないか。パリの地下鉄で感じた、この中にも「敵がいる!」という疑心暗鬼状態の恐怖。私はアラブを敵とかはまったく思わなかったが、周りがそう思っているという空気。アルジェリア生まれのムス君の気持ちが思いやられた。彼は現在、アメリカで研究活動をしていて、年末のグリーティングは欠かさない。彼がアメリカでグリーンカードを取るときは、私も推薦書を書いたものだ。オリビエ君もアメリカで研究を続けているようだ。昨年、つくばでISSFALの国際会議に出席したとき、Bourre先生に会った。彼も元気そうだったが、少し痩せたかな。彼の娘のBlandineが結婚したことは一昨年聞いた。結婚式への招待状が来たのだが、残念ながら行けなかった。10年経つと、人々の環境は変わるものだ。仏蘭西の思い出は、しかし、磨かれ、再構築され、いくつかの情景は鮮明な記憶になって脳にとどまっている、あの湾岸戦争という歴史の一こまとともに。(2001.2.12)***********

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