「みそぎ」の祭り

 今年は 12 8日(土曜日)が、岐阜市池ノ上 の「 みそぎ祭り」の日でした。昨年は見る機会がありませんでしたが、今回は我々も3月からこの地区の住人になったので、この「 600年以上の伝統 を守る祭り」に興味津々でした( 長良川の鵜飼は1300年の伝統があるそうですからその半分も無いのですが、地区の小さな神社の祭りとしては結構歴史のある祭りだと思います )。この祭りは、住宅地の真中にある小さな神社である「葛懸神社(かつらがけじんじゃ)」の大祭で、通称「はだか祭り」です。岐阜市では有名な祭りの一つで、 こちら にも 詳しい解説やスナップ写真があります(近くにお住まいの歯医者さん澤田さんのページ)。

 私もこの日はカメラを構えて見に行きました。この時撮ったいくつかのスナップも、 こちらに 紹介しましょう。ちょうど その1週間前に「愛子様」御誕生があり、その祝いの印がこの祭りの色んな場所で見ることができました。実は、 このような「誕生」と「みそぎ」とは深い関係があるのですね〜。

 この池ノ上みそぎ祭りでは、たくさん店が出て、どこから来たのかと思うくらいたくさんの子供達がいました。はだか祭りとしても、少年達のはだかの「部隊」も練り歩き、その後大人たちの部隊がワッショイワッショイとかたまりになって練り歩いていきます。こういう伝統的な祭りには絶対子供達の参加が重要ですね。そうでないと何百年も続くはずがありません。

 日本の中で「みそぎ祭り」「禊祭」と呼ばれている祭りはたくさんあります。この池ノ上のみそぎ祭りと同様に、冬に男達が裸になって冷たい水に入っていくことで「みそぎ」をするという本来の「みそぎ」( ' 'を水で 'すすぐ 'という意味からそう呼ばれたようですから)祭りも函館などいくつかあるようです。不思議なのは、 山梨 東京 にも「みそぎ祭り」がありますが、ここでは水に入るのではなく、「輪くぐり」と謂われて、大きな茅の輪をくぐっていくのが禊の様式のようです。それで、ちょっとこの「不思議」を考察してみたくなりました。

 「みそぎ・禊」自体は良く知られているように、古事記に載っていることですが、イザナギが黄泉(ヨミ)の国からもどって、付いた「けがれ・穢れ」を洗い流す為にやったのが最初の「みそぎ」といわれており、宮崎県にはその みそぎ池  なるものまであります。そのみそぎのあと、天照大神など神々が産まれた、とされています。だから、この現世では、穢れたことをやったとか、悪いことをやった場合、そのあとその罪を「みそぎ」でもってさっぱりと「洗い流して」新しく生まれ変わろう 、というような意味合いでこの言葉・禊を使うわけですね。

 これは、多分、赤ちゃんが血液や粘液まみれで(これが大昔は「穢れ」と考えられていたのかも)産まれ出でて、産湯で身を綺麗に洗い流して、ようやく誕生ということになることと、この「みそぎ」の行為とが大きく関係している、と思うわけです。このように理解をすると、先の「輪くぐり」の行為が禊として行われる祭りもあるのは、正に「輪くぐり」と出産の状況との類似性から、理解できるのではないでしょうか。
 ただし、「みそぎ祭り」での禊様式は寒い時に冷たい水に入るわけですから、「痛み」を伴わないといけないのでしょう。「簡単に穢れがなくなると思っちゃあ困るんだな」とでも言うように、大人の場合は(多少は)苦痛を伴う方法で禊行事を行わないといけないようです。赤ちゃんの産湯は、もちろん、暖かいお湯ですけどね。

このみそぎ祭りの翌日が、あの全国実業団女子駅伝だったのですが、今回も Qちゃんの走る姿を見ることができませんでした。残念ですが、病気じゃしょうがない。(ですので、良い天気だったのですが、今回はテレビで観戦)でも、その痛みを次の世界記録へのばねにして欲しいものです。

 相変わらず、今年21世紀最初の年もあまりいい話が無くて(  というより 、きな臭くてアブナイ話が多くて、‘Xファイル化'しそうな炭疽菌テ ロ事件とか悪化する中東情勢とか、BSE問題とか、東海地震とか、 不景気とか、来年以降も益々アブなくなりそうな話ばかり、、 暮れようとしていますが、この世の穢れをこの祭りの禊で綺麗さっぱり流して 、良い年になって欲しいものです。と、月並みな締めくくりになりましたが、良い年になるかどうかは人々の智慧の出し方と行動でしょう。ちょっとした工夫で、面白いことができるはず。先日、テレビで「左右逆にならない鏡=鏡像にならない鏡」の商品化のことが出ていました。これも「工夫」の賜物ですが、このアイディア自体は古くからあり、フランスの科学博物館にも10年以上前から展示してありました(私の滞在記にも書いていました)。今回は、これを売れるように商品化したという、「智慧」を「行動」に変換したことへの共感があります。こんな智慧と行動を、至る所で発揮する必要性が、今こそ求められている気がします。
 しかし、あと
100 年以上経ってもこの「みそぎ祭り」は同じ姿で続いているでしょうか?想像すれば、楽しいものです。裸になってしまえば、人間の姿は 600年前も 100年後 もあんまり変わりはないでしょうから。(周りで見ている人たちは例の「ジンジャー=セグウェイ」で移動していたりして、、、。それは…、ないか…。)

 100年後といえば、15日、長良川国際会議場で「ワンダーテクノロジー2100」という講演会とロボットの実演があって、家内と一緒に見に行ってきました。北野宏明氏(ソニーコンピュータサイエンス研究所、 http://www.symbio.jst.go.jp/topicJ.htm ) の、ロボカップの話やそれから延長して50年後を目指したヒューマノイドロボット開発の意義、などについて面白い話があり、新しいヒューマノイドロボット「モルフ2」の実演もあり、私には楽しめた会でした。ただ、みぞれ交じりの悪天候で、参加者が思ったより少なかったのが、ちと残念でしたが、子供から年配の方まで熱心に見ていました。
 これまで、人間の開発してきた多くの技術は、例えば車は足の拡張した機能であり、パソコンは脳の拡張した機能、などというように、生体の一部分の機能を拡張するものとして開発され発展してきていますが、ヒューマノイドロボットは、正に 人間個体丸ごとの拡張として位置付けられているわけです。ヒューマノイドロボットの意義については、これまでも様々に議論されており、技術的・倫理的な問題などもピノキオ、 鉄腕アトム 、などから最近の映画「A.I.」など、小説や映画などでも盛んに議論されてきました。
 「けがれた心」の人間がその最高の技術を手に入れたらどうなるか、などというのは小説の格好の題材です。そして、これは空想のことではなく、真剣に考えなくてはいけない 現実のことであることを、今の状況は示しています。

 穢れと禊そして新生、人間誕生以来連綿と引き継がれているこのテーマは(別の世界での表現では、原罪と赦し?、そして復活…)、今も厳然と生き続けていることを思い知らされているこの頃ではあります。

では、 来年も、少しはウマくいくことがありますように!!(イヤだね、暗いね、なんとも、まったく。アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク …この音楽は暗くない、って、こんな寒い駄洒落でしか明るくなれないか…)

(2001.12.22)