苦熱溽暑の7月

 また、◯◯の◯月という書き方で始めてみました。
 例年7月の後半は、「くそ暑い」岐阜という言い方がなされるほど、暑い日が多いのですが、岐阜では多治見の全国一熱い街に目を奪われますがこの岐阜市 も、今年は夜中も暑い日がだいぶ続きました。こ こからも見れますが、日本全国、この6~7月は平年をだいぶ上まわった温度が続いています。どうも、北極の周りを回る偏西風の蛇行の 仕方が、だいぶひどくて、モスクワでさえ猛暑だそうで、ひどいゆらぎです。なお、酷い蒸し暑い状態を溽暑(じょくしょ)というそうです。
  今年は、制度変更があって、授業が8月の第1週目まであり、昨年までは7月の最後の週が定期試験の週で、この暑さと試験を凌げばあとは花火を見て夏休みに 突入、 という感じだったのですが、この苦熱があと1週間余計に続くわけで、ご苦労さんと言いたいですね。私の場合、前学期は2年生と3年生の授業をもちました が、小テスト2回と、先週までに終わった「まとめのテスト」と、計3回のテストの平均を見て、レポートや出席の状況も勘案して成績評価をする、と最初に宣 言してあります。最後の15回目の授業では、テストの答え合わせと解説、および残りの授業をおこない、文科省からの「15回目も授業をせよ」という変なお 達しにも 答える形になっています。
  以前にも書きましたが、従来のように「最後の週の定期テスト」をやって、あとは成績付けて終わり、というのでは、学生に対して最後の 詰め、ともいうべき「悪いところの指摘と反省」ができないのです。試験も授業の一環である、と考えるならば(当然ですが)、その試験を通して学生はどこが 分から なかったのか、だめだったのか、をしっかりと反省していく必要があり、そこを指摘して身につけさせるというのが大事になります。ですから、15回目も授業 をしなさい、ということ自体は、そういう意味で至極当然であるわけです。
 しかし、全国の大学では、文科省が試験の仕方のことをなんにも言ってもいないのに、 16回目に定期テストをすればいい、と解釈して、相変わらず学生に駄目だった点を反省する(のを指導する)機会を無くしてしまっているのです。こういうの を、どこの大学もやるようになったとかで、学生の学力低下の歯止めにもなんにもならないような、たった1回の、90分授業をそれまでの1350分にさらに 追加することに、 多くの大学で唯々諾々として従っているのを見ると、まったく大学はつまらんものになったわい、とため息が出てしまうのです。
 
 さらに大 学には追い打ちがかかっているようです。子ども手当や高校授業料無償化の政策をすすめるために、他のことでは各省庁一律1割削減を、という閣議決定がなさ れようとし、それが進むと国立大学法人関係では900億円を越える財源が消滅する格好になり、高等教育システムが危機に瀕するだろう、ということが物 議をかもしています。その代わり、というのか、政策コンテストをさせて、いい所には合計2兆円ぐらいの特別枠予算をあてる、というの を公開のもとでおこなう、などということがニュー スに出ています。またかよ、とまたもため息が。
  政府は、最初に考えていた「国家戦略室」を事実上消滅させたので、昔の政権と何ら変わらない、先の見通しもなく、学生や大学という高等教育の仕組みを壊そ うとしている(というか壊れるのを見守るしか無い)と感じます。人件費を減らすために大学でのポストは減らされ、定年で辞めてもその補充はなかなか できなくなり、非常勤でまかなうしかなくなります。大学では新しい若い人がなかなか入ってこれないので、教授の数が多くなる逆ピラミッド形の教員構成が強 まります。臨時のプロジェクトがあたって任期付の若手の登用がなされても、5年後にはそれもどうなるかわからない。政権が代わっても、高等教育に関しては 良くなるどころか、ますます悪いトレンドが強まっていくようです。

  国の将来は人材を如何に育てるかにかかっている、というのは自明のことです。我が国においては特にそうです。ですから、子供を増やすために子ども手当の政 策を考えることや、義務教育や高等学校の教育を実質無償化して高校教育を誰でも受けることができるようにすることは、今までが極めて不十分だっただけに良 い方向であるはずなのですが、そのしわ寄せが大学教育にも及んでくると、人材育成の大事な段階を壊してしまっては、何の子育てか、何の高校教育無償化か、 と思います。社会に出るところまで、大学・大学院の教育をしっかりサポートしてこそ、人材育成が一貫したものになると考えます。そのようなサポートがない と、やはり学生は海外留学にも積極的ではなくなるでしょう。
 今までの日本は、OECD各国と比較してみても、政府の教育にかける予 算は不十分なもので した。高い授業料でもやってこれた、ということは、国民の各家族の教育に対する負担に依存していた、ということであって、国民はあまり余計なお金を使わず に子供の教育にお金をかけ、貯蓄してきたわけです。その貯蓄が、国家の大きな財政赤字が続いても国家破綻を防ぎ、国を支えてきました。その貯蓄がこの不況 下でもあまり大きな目減りをしなかったのは、薄く広く課税している消費税が相対的に低く抑えられてきた、ということもあると思います。
 ですか ら、人材育成という公共的な部門の充実、社会保障の充実、それと貯蓄分も含めた国家の財力をどう配分しどうバランスを取って使うか、というのはまさに政治 の問題、国家戦略の問題なわけです。菅内閣はいまや八方塞がりの困った状況ですが、この苦熱の夏、こころは熱く、頭脳はクールに、指導していって欲しいも のです。

(補追)7月24日には、森毅さ ん・元京大教授(数学者)が亡くなられました。また、だいぶお人柄は違いますが、4月21日に多田富雄さん(免疫学者)が亡くなられています。どちらも闘 病生活の末にお亡くなりになったようです。
  森毅さんには、京大教養の頃に数学を習いました。その頃からすでにある意味「有名」な方でしたが、その「不真面目さ」が当時の荒々しい学生の雰囲気にはよ く合っていたと思います。その森さんが亡くなられた時の「天声人語」にあるエピソードが紹介されていて、昔(といっても私たちよりはだいぶ後の世代だと思 いますが)、授業に出ていた学生が授業に出ていない学生が多い中で森先生に文句を云って、ちゃんと出席を取って欲しい、と。そしたら森先生は「「よっ しゃ、出席してないヤツは 少々答案の出来が悪くても同情するけど、 出席したくせに出来の悪いのは容赦なく落とすぞ」。私たちの世代の「常識」からすると、森先生のような人に対して「出席を取って欲しい」ということを言う 方が「おかしいんちゃうか。」と思ってしまいますが、今の大学ならやはり森先生のような方は異分子として大学に居られなくなるのでしょう。大学教員の多様 性を排除したような大学は、実につまらんもんですが。森毅さんは、これまでたくさんの一般書をものにされていますが、『エエカゲンが面白い』など飄々とし た感じで、結構過激な哲学(毒)を包んで話されていますので、文字通りに信用してしまうと一般の人達はたぶん色々傷つくことも多くあるはずです。その一段 奥にある意図を汲み取らないといけない、というのが40年ほど前に習った私たちちょっとひねくれた学生が肝に命じたことでした。テレビや本で森さんが喋る のを聞く機会があると、「またオモロイ事言うてはるわい」と、思ったものです。でもこういう、独特の思想哲学をもったような方が大学には少なくなった、と いうのが、最近の大学をつまらなくさせている要因の一つなのでしょう。
 多田富雄先生については、最近も「現代思想」誌7月号で特集が組まれるほど、その研究と思想哲学は広く影響を及ぼしています。最近、その著である「ダ ウンタウンに時は流れて」(集英社)を読みまして、若い頃のデンバー留学時代の生活を知ることができました。そのような、「深いお付 き合い」を様々な人達としてきたことが、多田先生の哲学を育ててきたんだな、ということが得心できました。


(2010.07.30)