「かたち」か「意味」か、という言葉で言えば、「かたち」のこと。こんなこと、言うまでも無いかもしれませんが、どうも最近も(いや、昔からだが、、、)どういう意味で使っているのか曖昧な「構造」が、社会科学的(文系的?)な分野で多いような気がします。
いやむしろ、社会科学的にはその「定義」はしっかりしているのでしょうけど、生物などの理系領域で使う「構造」とはニュアンスが違う気がします。
経済構造などといったときは、「制度とか仕組み」ということで構造という言葉がつかわれているようです。生物化学領域では、蛋白質の「構造と機能」、生体膜の「構造と機能」、などというように、「ある機能を生み出すための構造」というふうに、「かたち」に対応する言葉で「構造」を使うことが多いわけです。DNAなどでは一次構造、即ち塩基配列が、それ自体で意味をもっていますが、もっと大きな蛋白質とか糖鎖などでは「かたちは似ていても全然違う機能をもっている」とか、逆に「違う成分で構造形成されていても同じような機能をもたらす」、ということがしょっちゅうあります。生き物の世界では、「かたち」が決まれば「機能」や「意味」が全部決まるということはないわけで、そんな直線的な関係よりむしろ、非線形的な関係にあることが多いと思います。これは、かなり複雑な「関係性」の上に構造が成り立っているからです。
経済も「生き物」のようです。ある意味では、大学というところも、「生き物」に近いところがあるかもしれません。実際、人とお金と情報の出入りがあり、「代謝」していますしね。
ちょっと前置きが長くなりました。
最近、金融構造改革や経済構造改革などの言葉と並んで、「大学の構造改革」などという言葉が文科省からも出るようになりました。しかし、(予想はしていても)こうも場当たり的に(というか本音丸出しで)言われてしまうと、この雑記でも何か言いたくなります。
それにですね、東大を筆頭にした一部の大学・機関にはこれまで相当な(財・人)力を注ぎ込んできたではないですか。それでいて、それらの大学は世界の大学のランキングではあまり芳しくないのは何故か、という理由を分析したのでしょうか。ちゃんと分析された文書を私は見たことはありません。ここにはこれだけ予算をつぎ込んだが教育と研究においてこれくらいの実績しか生み出せないのは何故か、という大学全体としての分析ですね。
また、旧七帝大を含めてトップ30とかいっても現在有形無形の「席順」が決まっている体制(構造)がそのままで残っていったら、何の効果も生み出さないんじゃないでしょうか。すぐ「飽和」しちゃうはずですよ。そういうところの分析が必要です。やるんだったら、サッカーのJ1のように横並びにしてスタートさせて、J2との入れ替えもあるぐらいのことをやらないと、「構造」の改革にはならないと思います。
これこれの「機能」を引き出すためにここの「構造」をこう変えるという明瞭で具体的な目的をもたないと、うまくいかないと思いますね、一般論ですが。
それなのに、また、ごく少数に(30)お金を注ぎ込めば他は潰れてもなんとかなる、という発想では、現場の研究と教育に関係しているものの意識とは乖離するばかりです(7が30に変わっただけ)。もちろん、現状でも他の国と比較しても大学全体にかけている予算比率は低いので増やす必要はあると思いますが、目的をはっきりさせることが、まず必要でしょう。なんでもアメリカでやっているような「構造」に変えれば、同じようにやれるようになる、というのは幻想だと思いますよ。構造が、人と人、人とモノ、の関係性の上に成り立っているということがあまり考慮されていない気がします。その関係性の「意味・質」を考えないで、制度面や金銭的な面だけを変えても同じにはならないでしょう。(金儲けなどというのは日本人の研究者の研究を進める上でのインセンティブにはあまりならないんじゃないでしょうか。もちろん一部には当てはまる人もいるとは思いますが、それが全部だと思われたら、誤解というか、違うんでしょうね。自由な発想を大事にしてくれて良い研究コミュニティを作ってくれるほうがはるかにインセンティブ要因になるはずです。)
予算的制度的な援助・支援を言うなら、今は明瞭にベンチャー支援にもっともっと回したほうが、経済構造の改革にとっては効果的ではないでしょうか。
ちょっと話題を変えて、最近の「中央公論」七月号に、「なぜか強いフランス経済」 という面白い特集がありまして、フランスの経済成長率がここ数年アメリカについで2位をキープし01年度にはアメリカを抜いてトップに立つ、というわが目を疑うようなことが書かれていました(10年前フランス留学したときには思いもよらなかったこと)。アメリカ流のITを中心にしたニューエコノミーと市場経済第一主義、グローバリゼーションの流れに強く反発しているのはフランスなので、一種驚きではあります。
その分析では、フランス官僚の減少と民間への転出、行政の役割低下、規制緩和、地方分権化、EUへの権限委譲などの動きとともに、相変わらず強い公共部門の比重と交通インフラや農業などのオールドエコノミーといった「公共財」の適正な存立が重要であった、という指摘がなされていました。フランスでは公教育として高等教育が重視されている(低い入学・授業料など)のはよく知られていることで、高等教育はまさに「公共財」としてとらえるべきものです。フランスでは、公共財とヌーベル・エコノミの良いバランス、そして異文化交流を厭わないハイブリッドな感覚が、よい結果をもたらしている、という評価がなされています。
一方、日本では、法人化の議論はまだよいとして、もうそれを通り越して、公共財としての高等教育を闇雲に(強圧的に)市場原理にゆだねようとしているように映ります。ちょっとまってくれ、と言いたくなります。本当に国としてそれでいいのか、って。文科省にカルロス・ゴーン氏かフィリップ・トルシェ氏のような感覚をもった人々がいたらどのような政策を出すでしょうか?誇り高い彼らフランス人なら、歴史ある大学を貶めるようなことはしないと思いますね。私は以前からいくつかの面で日本的なやり方というのは、アメリカ流よりもフランス流のほうが「より合っている」のではないか、と感じています。
#ちょっと腹立ちまぎれに書いたので、取り留めない話になってしまったかも…
(2001.6.22)