言葉の謎と脆さと強さ
2月末のトリノ冬季オリンピックの荒川静香選手の女子フィギュアスケートでの金メダル(日本選手団唯一のメダル!)から、最近のWBCの野球での日本の
金メダルまで、色んなスポーツ
の報道で感動したのは久しぶりでした。金メダルを取ったこと自体への感動というよりは、それまでのプロセスで、「苦しみと絶望感を乗り越え歓喜に至れ!」
の精神そ
のものを感じたから、というのが僕の印象なのですが、人それぞれで捉え方は違うとは思います。(でも盛り上がり状態を見ると、多くの国民はそう感じたので
はないかな、と想像しています)
これらの中で、背景に流れていた情報、つまり音楽と言葉の果たした役割に思いを馳せています。人間の脳で表現される情報で意識に上って来るものは、「言
葉」であらわせますが、無意識に流れているものはそれ以外、たとえば「音楽」としてあらわし、感じることができます。それでも歌曲は歌詞がついていますか
ら、ここでは「言葉」の一種として捉えてみましょう。
まず、荒川選手の金メダルでは、最後のフリーの演技のときの演奏音楽が、オリンピック開会式でパバロッティが歌ったものと同じ、オペ
ラ曲のTurandotで「誰も寝てはならぬ(Nessun dorma)」
のアリアだったこと。この曲が演技にフィットして、もしかしたら演技の採点にも影響したのではないか、と思わせるほど、見ているものには感動的なものでし
た。特に、荒川選手のイメージであった「クールさ」と、Turandot姫の氷のような心、との共鳴がこのプッチーニのオペラを知るものの心に響いたので
はないでしょうか。この曲は、本来はテノールのためのものですが、本田美奈子も歌っていたようです。あるテレビ番組で聴きましたが、彼女の歌も素晴らし
い。それと、荒川効果でこのCDが売れに売れているとか。因みに、Turandot
の物語の由来などは、ここに詳しく書
かれています。そこでは、色んな言葉の謎謎がやり取りされますが、最
後には「(Calaf王子)私の名前を当てなさい」「(Turandot姫)それは、愛!」、ってなところにたどり着くまでに歌われるアリアが「誰も寝てはならぬ」なのです。だから、氷のようなクールさを漂わせる選手(荒川選手)の演技の背景には、その
「愛」にたどり着くまでの炎のような思い(最終目標としての「愛」=金メダル…)が込められていたのだと、想像しています。(Turandot姫たる荒川は、イナバウワーのような採点に関係ない演技をしたのも謎かけの一つ、、と深読み…)演技を際立たせ、選手を乗って行かせるための選曲の妙、素晴らしい
と思いました。言うなれば、背景になっているオペラの中
にある言葉の謎とその力強さで
もって、演技とマッチさせ、それを際立たせ人々を引きつけたということでしょうか。深読みしたがる人には、ぞくぞくするほどのドラマ性を感
じさせてくれるものでした。
このTurandotの曲はFPで流れましたが、SPで流れたのはアンプロンプチュ、即興曲。この曲には僕にも思い出があって、ウチの奥さんと結婚直
後、今から27年前にPostDocとして一緒にアメリカに行ったとき、その年の秋に、ある国際的な研究会がそのときのボスの主催で行われ、50人ぐらい
の研究者が集まった懇親会の時に、なんとウチの奥さんが頼まれてピアノ独奏をさせられて(一応ピアノの先生だったので)、あのショパンのアンプロンプチュ
を弾いたのでした。恐れを知らない20代後半の若者の特権なのでしょうが、その時はノーベル賞受賞者のP.ミッチェル先生もおられたし、日本からは早石修
先生もおられたのですから、今から思うと冷や汗ものでした。この曲は個人的な強烈な思い出と直結しています。
それから、先日のWBC(野球の日本が優勝したのでWYC、ワール
ド・ヤキュウ・クラシック、と呼んだほうが良いというアメリカの新聞もあったようですが)ですが、ここにはまさに、「苦しみと絶望感を乗り越え歓喜に至れ!」
が体現されていましたね。キーポイントは何といっても韓国戦ですが、ここにはどうもイ
チロー選手の語ったとされる言葉(「これから日本と
戦う国が、30年間、勝つ意欲が出ないようにしてくれる」)が、韓国を刺激し、あのような素晴らしい試合になったと解説している人もいる
ようです。なぜあのような、一般の人にも軽口とおもわれるような言葉
をつかったのかは、実は謎ですが、どんな意図で言ったかに関係なく、言葉自体が一人歩きして、さまざまな影響を人々の心に与えたようです。またイチロー選
手が、他の日本の選手と交流するときも、言葉とともにその背中(つまり行動)が大きく作用していたと思いますし、ぎりぎりのところの戦いでは、選手が、監
督が、投げかける言葉の重みとそれが人間の心にどれほど響かせることが出来るか、というのが重要になることが多いと思いますね。
この間、スポーツとは違いますが、19日の日曜日に起こった交通事故では、言葉の脆さ、を感じることにな
りました。その日曜の夕方、「故障」と表示された踏み切りに入って
いったおばあさんが、電車にはねられて死亡したという事故でした。そのとき、東京から帰る途中で午後10時前に名古屋に着いたのですが、なんと入ってきた
電車は午後6時ごろの電車でした。あとで、その事故の様子を新聞で知ったのですが、「故障」という言葉の表現が、誤解を生み、人を事故に追いやること、こ
の場合は死亡事故ですから、深刻だなぁ、と感じたわけです。これは、言葉の脆さ、の例になるでしょうか。もし、「故障」という表示の変わりに、「危険!立ち入るな」とか表示されていたら、事故は防げたでしょうか?少なくと
も、「故障」表示→遮断機が下りているのが故障状態と判断してしまう→本来は遮断機
が上がっているのが正常状態と判断→強制的に遮断機を手で上げて中に入って渡ろうとする、、という誤解の連鎖は防げたのではないでしょう
か?言葉は、意識に上っていることを表現しますから、一応、論理
的であります。ですから、そのような誤解も、論理
的には間違っていないと思います。
それから、中学生だったか、先生に掛けられた言葉を気にして自殺したというニュースもありましたが、これも言葉が強すぎて、人を自殺まで追い込んでし
まったのかも。またあれほどセクハラ防止に力を入れている大学なのに、事実としては事件を起こした教授に、たった1週間の停職処分(今は春休みだし)だけ
で、どこのだれかも判らないという状態のままにしてしまっては、罰にもならない、というようなことが起こっています。停職やセクハラ防止という言葉を使っ
ていますが、その言葉が結局はすごく軽くしか伝わらないことになっています。周りにはなんの証拠も知らせていないのですから、ガセと言われてもわからない
(でしょ?)。偽メールで政治が混乱していることといい、軽い言葉で問題を引き起こしているのを見ると、教養というか哲学というか、力強い確かな言葉がな
くなっているなぁ、と感じます。
使う言葉の重さ、強さ、とともに、その脆さ、危うさ、を感じます。
使う言葉は慎重に!
(2006.03.26)