常識への態度


 
2004年が明け、大学も後期の追い込み時期になり、何かと気忙しくなってきました。昨年末の長く続いた風邪症状の嫌な体調から、正月休みの完全休養期間を経て、完全に復調しました。それでも頭の色んなところに微小なとげが刺さっているかのように、世の中、気になることもいっぱい続いていますし、この周りも大変忙しくなっています。

 

 まず、教養教育改革への取り組み。

本学は教養教育推進センターが来年度から担当。196970年、教養教育課程自体をまともに経験できなかった私自身が、そのセンターの末席に入るのは気恥ずかしいのですが、逆に、だからこそ若干思い入れが強いのかも。ただし、今は準備会。しかし、作業はもう始まっていて、そうしないと平成17年度からの改革に間に合わない。これは、法人化が16年度から始まることで、大学のひとつの重要な柱である教養教育を整備しようということ。16年度は、いわば過渡期なので、教育は15年度を踏襲することになっているので、16年度は17年度以降の制度を決める大事な年。法人化になると(別にならなくても)社会的な評価が厳しくなって、しっかりその意味付けとバックアップが必要になるわけです。

 教養教育というのは、前にも書きましたが、雑学や「トリビアの泉」を教えるようなところではなく、ちゃんと体系化した幅広い「常識」を身につけさせようと(教官も学生も)格闘する場、なんだと私は思っています。これが、専門学校とは違うところです。そして、その体系化した「常識」が、専門に取り組む上での態度・決断にとっても、重要になってくる、というわけです。その体系化がこれまであまりできていなかった。そこは問題点として簡単に指摘できるのですが、より悩ましいのは何を常識として学生に提示するのか、ということ。我々、科学研究を生業としているものは、いわば「常識を疑う」訓練をしている者たちでありますから、どのように導入期の学生に、その「常識」を教えかつ「常識を疑う」ことを学習させるのか、というのは結構技法の要ることなんです。

 政府のお偉いさんがよく記者会見で「それは常識の範囲で」などということばで「お茶を濁す」という、政府が取る態度の「常識」もまさに疑ってかかるべき対象。また同じ方が「東京にいても交通事故にいつ遭うかわからない(だから危険の可能性はイラクも日本も同じ)」などという言い方をされると、常識的には「全然違う問題でしょ」となりますな。このようなことを聞くと実に哀しくなります。こういう言い方にころっと騙されないようにするのも、教養の一部かな。

先日のテレビのある番組で識者が、「武」という字は「」という武器と「止」がいっしょになったもので、戦う武器とそれを納める(ホコを納める)、止める、という行為が一緒になった漢字である(つまり戦うことと止めることが一体となっていなければならないという主張と受け取った)、と喋っていましたが、あれっ、と思って白川静さんの本を見てみたら、「止」は止める、の意味ではなく、「足跡」という意味で、「武」は武器をもって進む者たちを表している、と出ていました。そのテレビでの識者の言いたいことは分かるが、その主張を常識のようにおっしゃられると、本来の意味とは違うものになってしまいます。

万人に共通の「常識」などというのはあまり無い、ということを「常識」として提示すべきなのか。常識の中の常識(数少ないコア常識)だけを提示すべきなのか。こういうすっきりとしないことを、粘り強く思考できる訓練をする場が、教養教育の場。高校までの、教科書に書いてあることだけを詰め込まれた頭を、より複雑で魑魅魍魎な社会に飛び込ませる前に鍛えておく、「助走の段階」が教養教育。などと考えていくと、教養教育って、結構大変。1年ぐらいでそれをうまく制度化できるのか。走りながら考えるしか、ないのかも。また、前の雑記でもメモしておきましたが、1〜2年の「教養教育」で常識が身につくはずも無く、むしろ社会を目前にした時か、社会に入っていったときこそ、常識=教養が必要になるのであり、本来は生涯教育こそが教養教育なんだと思います。だから、大学1年生と社会人かその直前の学生らが一緒に学習できる環境を提供することこそが、教養教育改革の本筋ではないか、とも思っています。

これまで行われてきた教養教育(共通教育)のかなりの部分は、専門科目への導入部あるいは基礎を提供するもので、本来の教養=常識を提示しているものではありません。最近の新聞報道で、文部科学省が行った高校3年生の学力試験の統計的調査で、予想以上に理科系(数学と理科)の学力がないことが判った、とありましたように、大学に入ってからの専門基礎教育は将来の日本の科学技術力を(少なくとも)下げさせないようにするためにも、極めて重要ですね。特に、3割程度を占める学力の下のほうの学生、この部分の引き上げが焦眉の問題だろうと思います。それはそうなんですが、その専門基礎教育を教養教育のことだと勘違いして、そのことから「教養教育の充実を」というのは、ちょっと方向が違うと思います。むしろ、教養教育と専門基礎(導入)教育は、概念的に分けた上で、充分連携はさせながらも、基本的な取り組むべき態度を変えていかないといけないのではないか、と考えます。



 次に、117日に行われたセンター試験でのこと。

私もその時、試験監督をやっていたのですが、化学の試験である生徒が手を挙げて質問して来ました。これまで、20年近くこのような全国的な試験の監督をしてきましたが、幸運にも実際生徒から問題について質問を受けた覚えはあまりありません(少なくともここ10年位はなかった)でしたので、恐る恐る聞いてみると「このmってどれのことですか?」「・・・・」。よく問題を読むと「…の量を m g とすると、mはいくらか…」というようなことが書いてある。化学の問題に見慣れたものには「m g」とあれば「ミリグラム」と読んでしまい易いし、監督者の私も最初見たときはちょっと、あれっ、と感じましたから、気があせっている受験生が慌てるのも無理はありあません。よく落ち着いて読めば分かる(見ればmとgの間に半角スペース空いているし)のですが、それでも私もこういう問題の書き方は悪い例だな、と感じました。それで、質問を本部に挙げることにしたのですが、質問をそのまま書いても通じないと思いましたので、「m g はミリグラムの意味ではないのですね?」という風な質問だったとして挙げました。同じ問題の別のところには、x g と書いてあるのに、なぜここだけ m g なのか、y g とでもすれば分かりやすいじゃないか、大学の出題委員会にかけたら修正ものだな、と感じた次第です。こういう入試問題には、「mg=ミリグラム」と紛らわしい m g などは使わない、というのが常識でしょう。引っ掛け問題として出したのなら、センター試験に出すようなことじゃないな。それで、本部からの回答は、「原文のままで変更なし」というものでした。これをみんなに伝えましたが、なんのこっちゃ、と思った受験生も多かったでしょうね。今後の受験生の幸運を祈ります。

 ところで、こういう入試の成績と、大学に入ってからの、特に卒業時の成績とは全然相関しない、という調査結果が出ています(岐阜大工学部FD研究会)。「いかに落ちないような(つまらんところで引っ掛らないような)勉強をするか」という大学入試までの勉強と、「いかに創造的な勉強をするか」を大事にする卒業研究時の勉強では、自ずと使う頭の仕組みが違ってきて当然です。入試の成績のいい学生は最後まで良い学生、という「常識」は無にしましょう。最近ある大学では、入試の成績のよかった学生には卒業まで授業料を免除する、というような記事が出ていました。しかし、この大学の方針はたぶん、間違えていると思いますね。授業料がないなら、ということでそのうちの半数以上は留年が多くなるんじゃないかな、と邪推してみたりして…。



 次に、アメリカの狂牛病への対応の日本との違い、国民性についてです。

BSEがアメリカで発生したというニュースが出てから、様々なメディアが国民の意識や市場の動きを報告しています。私には、やっぱりな、という印象です。この期に及んでアメリカが検査を増やすといっても、牛全頭のわずか0.1%しかないそうですから、いままで出なかったのはただ、検査が足りなかっただけ、と思っていました。結構いいかげんな管理体制でこれまでやってきていたのが分かってしまったわけですね。しかしながら、アメリカ国民の8割はほとんどBSEに頓着せずに牛肉を食べる食生活のスタイルを変えるつもりがない、という報告は、日本の国民の意識との違いを極端なまでに明らかにしています。日本では、8割の人が心配していたわけですから。

こんな意識状況ですから、日本でのBSEに対して全頭検査で臨む、という常識がアメリカでは通用しないのもうなずけます。それに、アメリカでは、足腰が立たなくなった「ヘタレ牛」が25万頭ほど市場に出回っている、というニュースもあって、呆れてしまいました。約1500頭のBSE感染牛が出ると1人のnvCJD患者が出ている、というのが英国での過去の例。これで一般化はまだできませんが、もし仮に、ヘタレ牛25万頭のうち、1割がBSEだとしたら(ちゃんと検査していないんだからモウ今では分からないですけどね)、156人はnvCJDが出てきても変じゃないよなぁ。こんな杜撰な管理で供給されているアメリカ産牛肉を、どうしてこれまで、さほど心配しないで日本の吉野家などで使っていたんでしょうね。「アメリカ産だからだいじょうぶ!」、などと、ちょっと前に日本でBSEが出たときは、ノタマッテいましたな。私は全然信用していませんでしたが、なんでも頼りすぎはやけどのもと…。頼った相手のほうが、どんどん変わるんですから(昨日の友は今日の敵、って言いますよね)。和牛をもっと使えって。飛騨牛、柔らかくて美味しいよ。

 アメリカ政府のほうからは、アメリカの検査制度は「科学的であり問題はない」と、日本に対して強く(輸入禁止解除を)迫ってくるようです。ここでいう、「科学的」とは何か?BSEの発症機構も不明なのに、どんな統計的背景を持ってアメリカがやっているサンプリングの方法が、科学的といえるのか?一般的な、工場での不良品検査のための抜き取り方法のような、超幾何分布だとか発生確率のある分布関数を仮定しても、それがBSEの発生確率に合うかどうか、保証は全然ないのだから、厳密な意味でのBSE検査のための「科学的抜き取り検査法」はまだ、あり得ない。そのため、安心を保障するための「全頭検査」が、大変だけど、確実なわけですよ。BSEの発症機構が不明、牛への感染機構も不明、人間への感染確率も不明、他にもまだまだいっぱい分からないことがある、BSEの場合、科学的ということを標榜するなら、「全頭検査」以外、科学的に安心できる方法はありません。あの「訴訟天国」のアメリカで、もし、このような政府の下で、たった一人でも、nvCJD患者が万が一、発生でもしたら、政府を揺るがす大問題(裁判上の)になるでしょう。ハンバーガー食べて肥満になったと、ハンバーガーショップを訴えるような国ですから。

日本人には、遺伝子レベルで心配しがちな性格を、欧米人より持っている、というのは、ドーパミン受容体の研究からだいぶ前から分かっていましたが、今回の一件でも明瞭に示されましたね。ただ、BSEに関しては心配しがちなほうが、良いに決まっています。あと10年ぐらいでアメリカで異常にnvCJDが増える、というようなことがないことを祈ります。先日も確かテレビで、ある一般のアメリカ人へのインタビューで、「交通事故でも死ぬかも知れねーからBSEなんか気にしねーよ!」などと言っていましたな。・・・全然違う問題だろ、とまた突っ込みを入れたいところですが。向こうからは「オレは心配してねーから、おめーも心配しねーで、どんどん買えって!」とでも言われそうだけど、農水省、ここは頑張ってほしいな(大丈夫かな?・・・心配)。



 最後に、ボジョレ・ヌーボーBN)、常識への挑戦について。

昨年11月に買った2本のBNのうち、1本は正月までには空けましたが、ヌーボーのフレッシュな味、という常識は、この年のBNに限っては無くなりましたね。そのかなりこくと深みのある味はヌーボーとは呼べないもの。昨年のフランスでの異常気象に感謝してしまいます。もう一本は、まだもう少し寝かしてから味わおうと考えています。日本酒のように、ちびりちびりと、手酌酒で。

 

2004.01.25