例年、5月は生活のうえでも非常に慌しい月のひとつで、連休明けからは身の回りの忙しさと出費で首が痛い。それにも増して、社会情勢では、これまたいろんなことが起きてます。雨も多いし、どうも体調が今ひとつの人が、自分も含めて、多いような感じ。アレルギー症状などもいつもより強く出ているようで、気管支などが過敏に反応している人が、自分も少しそうだが、周りに目立つ。アレルギーは、異物に対して自己の体が反応することから起きますが、自己免疫病は自分の体の一部を異物と認識して自分自身を攻撃することから起きる病気ですね。
ところで、養老先生の「死の壁」本を読んでみました。内容は、以前の「人間科学」本を分かりやすく噛み砕いて書かれたもののようですが、どうも「悟り」に到達されたのか、あとがきには「もう文句はありません」とも書かれています。ほんとにそうなんですかねぇ?
その中で、日本という共同体における「死」というのは、伝統的には「穢れであり村八分になること」という暗黙のルールがあるのだ、ということが書かれていました。外国ではそんなことはないのに、日本では死ぬと「俗名」とは違う別名である「戒名」が付けられて、世間の外に追いやられる、というような共同体ルールがあると。中根千枝さんのタテ社会に関する本にも似たようなことが書かれていたように思いますが、共同体意識が強い日本では、同じ日本人でも共同体ルールから少しでも外れた人に対しては、攻撃し排除しようとする意識が強いのではないか、と思いますね。
先月ぐらいまでに流行った「自己責任論」による過剰なまでの公的な人たちによるバッシングも、戦術もあったとは思いますが、実は社会の自己免疫病じゃなかったのかな、とふと感じた次第。自己免疫病が起こらないときは、そこには「寛容」という機構が働いている。そういえば、最近このネオコンウォッチャー氏はある新聞の「私の視点」コラムに、意外にも「寛容」の重要さを説いておられた。人間の行う戦争も、いうなれば同じ人間共同体の中の自己免疫病による自己攻撃で、自己細胞に「壊死」を起こさせ炎症性物質を周囲に撒き散らす。結果的に、細胞数は一時的に減少するが、また増えてきては攻撃され、炎症が持続してしまう。この攻撃による結果が「アポトーシス」ならば、このような害悪を周囲にまき散らかすことは無いので、静かに排除されていくが、戦争のような攻撃があると害悪をまき散らかすので影響は体全体(地球全体)に及ぶ。冷戦後のベルリンの壁崩壊などの現象は、どちらかといえば「アポトーシス=細胞の自殺」に近いのかもしれないですね。だからそういうのは、害悪の拡散は少なく、EUのような巨大な共同体の形成にも繋がっていけたんじゃないかな。
生命40億年の智慧というのは、ただもんじゃないんですよ。
(2004.05.23)