事実とものがたり
歴史モノ小説や映画は、過去の歴史であっても、いくつもの側面から見直すと、様々な解釈の仕方があるものだ、ということもあり、黒澤明監督の映画「藪の
中」的なことも多いこともあり、意表をつく解釈も出てきたりして、大変面白いものです。
2年前に「ダビンチ・コード」を読んで、夢中になった経験がありま
すが、これには歴史モノという以外に、暗号解きという要素を入れ込んだ小説で、現在映画にもなって公開中です。それで、早速に見て参りました。内容が宗教
モノであるために、世界中で様々な反応があるようですが、小説を読んでから映画を見ると、やはり面白いのですが、暗号解きの場面が少なく、ちょっと物足り
なさを感じました。
映画の中では何度も出てきましたが、このような宗教モノでは、「それは信じるかどうかの問題だが・・・」というのは、結局作者のメッセージの一つではあ
ると思うのですが、一部の「事実」と「事実のようなもの」と「ものがたり」とを巧みにミックスして、面白くしているわけです。「事実のようなもの」は、人
によって、立場によって、「事実」だと信じたり、虚構と思ったりするでしょうから、色んな意見が出てくるでしょう。それはそれで結構。なにしろ、それは科
学とは違って、繰り返しだれでも確認できるというものではなく、多くの場合ほんの一片の状況証拠のようなものしかないからです。さらに、年月が経ってくる
と、もしかするとうその事実がでっち上げられていて、それが事実であるかのようにされてしまっているにすぎないかもしれない、からです。
ですから、この「ダビンチ・コード」で言っているのはすべて事実かどうかを、議論しても意味が無い。むしろ、パリ・ルーブルを舞台にした意表をつく謎解
きものがたり、として楽しんだほうがいいものだと思います。
最近でも、ユダの福音書の発見がニュースで報じられたり、ナショナルジオグラフィックスでも特集されたりしていましたが、これも「信じるかどうかの問題
だが・・」ということであって、また新たな「ものがたり」を生み出すものとしては面白いものでしょう。
あの有名な、ローマ帝国のシーザーがブルータスによって暗殺されるいきさつも、事実として理解している人が多いでしょうが、つい最近テレビで放送されて
いたBBC放送の番組によると、「ブルータスよ、お前もか!」といったということも、暗殺だったのかどうか、ということ自体も、疑わしいということでした
ので、歴史というのは時間が経てば経つほど、立場によって、権力の側にいるものか、民衆の側にいるものか、はたまた完全に中立の立場にいるものか、などに
よって変わりうるものだ、というのが判ります。
歴史とは違っている科学の世界においてさえ、立派な科学的真理、と思われていたことも、これまでどれほど覆ってきたことか!ただ、歴史と科学の大きな違
いは、科学はだれにでも検証可能である(べきだ)ということにあります。科学は、あ
の人が言ったから、あの研究室で出されたから、あの雑誌に載った論文になっていることだから、、、真実なのではなく、多くの人に様々な立場
からでも検証され確認されることが出来て、結果の解釈においてもゆるぎなく合意できるものだった場合に、真実だろう、と言えるにすぎません。本来検証が困
難なことは、科学にはなりにくいものです。あそこに書かれているから科学的に正しい、というのは信じているだけのことで、ローマ正教会が言っているから正
しい、と信じることとなんら変わりはありません。
歴史も、科学も、より一般的に普及し、知られてきているものほど、解釈は単純になっているものが多いように思います。単純にならなければ、多くの人が理
解し信じてくれませんから。でもこのことによって失われている事実も歴史にはあることでしょう。多くに人たちが関係していることだから本当はもっと複雑な
ことなのに、ということも多いに違いありません。
ま、これも、信じるかどうかの問題ですが。しかし、少なくともいえることは、科学にたずさわる者は簡単に信じてはいけない、ということです。信ずるもの
は救われる、のは宗教であって、科学の世界では信ずるものは救われないことのほうが多いのですから。
(2006.05.28)