評価について


そのモノの価値を評する、というのは、いつの世でも簡単なことではないですね。いろんな分野で、「鑑定士」のような方たちがいて、威厳を持ってその評価を下します。ただ、自分の専門とする分野でない限り、その評価が本当に正当なものか、私には分かりません。「人間はこの地球上でもっとも偉大な生物である? そんなこと誰が言った?人間以外言うはずがないのに」というような意味の文をどこかで見たことがあります。それはそうですね。「生物」集団の中でそんなことを「鑑定」するものはいない訳だから。「人間」がアリンコやバクテリアに向かって「おれは偉大な生物だ、おまえたちを支配している!」って言ったって、「聞く耳」持ってないもんね。ただ、人間に住み着いている常在菌や寄生虫にとっては「役に立つ生物だ」ぐらいには「思われて」いるかもしれないけど。。。

それでも、人間社会の中では、「人間が人間を評価する」ことは、日常茶飯事におこなわれていますし、社会の仕組みとして(やむを得ず)必要なものもある訳ですね。この周りでも、授業の評価、研究の評価、論文の評価、特許による技術の評価、学科・学部の評価、大学の評価、地域の評価、国の評価、評価する人・機関の評価(或いは格付け)、などなど。そのため、できるだけいろんな工夫をする。完璧な「評価」はありえない訳だけど、「多数のものが納得する」(これがまた曖昧なんだけど)ように工夫するわけですね。

大学における「授業の評価」が結構流行です。それも、受講者である学生がその授業を評価する。それはそれでひとつの工夫(授業を良いものにするための)だと思っています。最近、こちらの大学でも、全学共通教育の授業の「学生評価」が行われ、その「統計的結果」と「自由書き込みによる個人の意見」が授業担当者に送られてきました。私もその担当者。

私は1〜3年生が受講者である全学共通の授業のうち、「個別」という分類に入る「脳と化学」というタイトルの講義を担当しています。その学生(の教官・授業内容に対する)評価を見ると、私自身で自分の評価をして考えた傾向と大体あっていました。自分なりに工夫したところは、良く評価されていますし、自分の弱点・不得意のところはやはり下がった評価(反省材料)になっていました。22項目の5段階評価(5点満点)の平均は私のその授業の場合、4.01で、「個別」授業全体の平均が3.62ですから、まあ平均以上にはなっていたようです。また、教育技術面(項目5〜14)の評価の平均は私の授業の場合4.08で、「個別」授業全体では3.64でした。因みに、教官の学生に対する評価、即ち普通の「試験」では、その講義では100点満点で平均69.2、標準偏差19.7 でした(最低点26、最高点96)。ただ、この授業での学生に対する「総合評価」は、出席点、レポート点、試験の点の3つを組み入れて適当なweightを付けて行っています。

これで一応、双方向の、授業に対する「評価」が成立したことになりますかね?

ただ、問題はそこだけで終わっちゃいけないのですね。それらの授業の評価は、大学の評価の基盤になるはずなのですが、「優れた人材を社会に送ったか」というような点で大学を見直すとすると、そのような授業はちゃんと貢献しているのか、という点の評価が(論理的には)必要になるはず。しかし、これは大変厄介でしょう。それに、そこまでギリギリと評価を求めるのも考えもので、長期的には逆効果になる場合だってあるかもしれない。私は、バランスというか、広い視野に立った自由さと管理の落しどころを考えたシステムが必要だと感じます。

評価だ、評価だ、って言って教官の無駄な作業量を増やしていないか、これ自体を評価する(双方向の)機構も一方では作らないとだめだと思いますね。自己点検・評価などのかなりな量の作業を大学としてやってきていますが、これ自体の長期的に見た評価はどうだったんでしょうね?

また、だいぶ前に一度、研究評価としての「科研費」配分の正当性について調べたことがあります。ある大学医学部での評価でしたが、論文の数・質(インパクトファクターの合計)と配分された科研費の額との間には相関関係があるか、ということを調べたのですが、あにはからんや、良い相関は得られなかったのです。(ここをご覧ください;PDFファイルです)

だから、少なくとも、今後大学での予算の配分に評価の方法を取り入れる、ということが言われるとしても、どのように「評価」するのか、の基準をできるだけ明瞭に示さないと、相変わらずボスグループの匙加減で決まってしまう、という懸念はぬぐいきれないのですね。

雑記のはずが、なんかあまり面白くない提言になってしまいました。

(2001.6.8)
追記:最近の、「科学」(岩波)6月号(Vol.71,No.6)の832頁に、早稲田大学理工学部の竹内氏が、大学の科学研究費の官民格差について、一文を書いておられます。これによりますと、論文数と科研費額との間には全体的には相関関係があるが、科研費額の少ない方(即ち地方国立大学や私立大学など)では論文数の割には科研費額が少ないことを指摘しておられます。また、論文数が多いから科研費額が多いのではなくて、もらった科研費額が多いときには論文数が増える、ということも指摘しています。旧七帝大では頭打ちの状況(飽和)であるが、私立や地方国立・公立で論文数の割にはもらっている科研費の割合が小さいところでは、もっと科研費を与えれば業績は上がるだろう(まだ飽和していなくて、ほぼ比例的に効果があらわれるはずだから)、ということも想像されています。私は、後者については、いくらか疑問ですが(でもトライする価値はあるとは思います)、前者の指摘はそうだろうな、と思います。科研費審査委員の構成がどうしても旧七帝大中心ですので、一部にはバブルのように資金が集中し流れ込んでいるというような指摘もあります。これも評価の方法を(構造的に)見直さないとどうしようもありませんし、効果対費用いわゆる経済効果は悪いものになるばかりです。)