春への流れ

 2月は、昨年同様、行事がたくさんあって慌ただしい月でした。しかし、28日の卒研発表会が済んでしまうと、とたんに新年度=春に向かって動き出す感じになってきます。春休みに入って学生はつかの間の余暇を旅行やアルバイトなどに過ごすので学内は急に閑散としてきます。春、というと、まず「希望」ということを連想しますね。冬の寒さに耐えたあとの、すべて光に満ちあふれ、すべてが命を歌い出し、歓びを予感させる春。毎年繰り返される、春、ですが、何か今年はちょっと違和感があります。

 卒業する学生にとっては、就職が決まったものでも会社自体が急にうまくいかなくなって取消という不安を抱えているものも多いだろうし、大学院進学するものでもあと2年以内で景気は良くなるのかという不安やオーバードクター問題という昔もあった危機による不安もあるでしょう。空回りする政治や経済への不安。3月から4月にかけてはこういう不安や希望が激しく上下しながら現れてきそうです。大学も含め社会のあらゆるところで激しいカオス的揺らぎが起こりそうです。

 その激しい揺らぎの後は、上向きの安定な状態が出てくれば希望は強くなるのですが、カオス的状況が長引くといやですね。 研究者でも研究室丸ごと海外へ出て行くところも出てきていますし 、日本脱出への誘惑が強くなりそうです。

 「産業の空洞化」が謂われて久しいですが、そのうち研究教育の「空洞化」なんて起こってきたら、大変です。今の「市場」のなすがままにしておいたら、たぶんそうなるかもしれません。「空っぽな」高等教育機能なんてことに…。しかし、「スポンジフォーム化」はかなり前から起こっていたという認識はありますので、その「細胞死」が更に進んで大きな「空胞」に…。

 であったからこそ、もっと「実の詰まった」学生を社会の隅々に送り出し、ぎっしり実の詰まった高等教育研究機能を取り戻すために、大学改革や教育改革の目的があったのではなかったか?  

             

 日本の、評価機構の脆弱な市場主義に基づいて、高等教育機能が変容された場合、その行く末は、今の日本の金融・経済・産業の動態を見れば予想がつきそうです。スポンジフォーム状態から空洞化への拍車。失敗を恐れるあまり程々のことしかしなくなるような意識。大学発ベンチャー企業を作れ、などという掛け声とは裏腹に、大学の自主性を完璧には認めているわけではなく、失敗してもまた立ち上がるのを保障する仕組みや励ます意識の貧弱な社会システムが、学生を萎縮させていることへの無自覚。成り行きでころころ方針が変わり長期戦略で社会的材としての学生を育ててこれなくなった、高等教育システム。グローバリズムを標榜しながら結局は一国の利益優先の「国際化」…。

 社会的な「沈黙の春 」ではなく生命にあふれる春になるようになるのはいつのことか?

(2002.3.12)