部分と全体


 「木を見て森を見ず」というのは、狭矮な見方を戒めた言葉でありますが、早い話が、部分と全体の関係でありますね。先日、11月19日に岐阜シンポジュ ウムで福岡伸一先生が来られて、一般向けに「生 物と無生物のあいだ」の話、というか、その本に書ききれなかった話をされました。そこで、言われた中で大事な言葉が、「生物には「部分」はない」 ということ。

 ここでその言葉じりを捉えてどうのこうの言うつもりはありませんが、養老孟司先生がいつも述べているように、人体を解剖学では「部分」に切っているがこ れ は「言葉だから切れるのであって自然は切れていない」ということが、 言いたいこと。境界線が引かれたような明瞭な「部分」というところが、生物体の中には 「ない」といっても、別に悪くはありません。
 ただ、システムという概念で捉えると、生物はシステムであり、システムには「部分」という捉えかたはちゃんとあります。
 しかし、それは孤立してはいなくて、切り離すことはできず、システムの中で働いている、ネットワーク化されている、という捉え方をします。「部分」同士 が相互作用している中で、統合されシステムとして機能していれば、その「部分」を切り離してしまうとそれは「システムの中の部分」ではなくなるし、本来あ る部分としての機能を持ちえない、ということを、「部分はない」と、表現してるのだと解釈しています。
 福岡伸一先生は、文章表現力が大変素晴らしい方なので、行間の意味をとらえないといけないでしょう。

 まあ、これはこれでいいんです。でも別の見方として、生物は不均一系なので「部分は生まれる」、という言い方も可能。多細胞生物では細胞は細胞膜という 境界があるので、生物体にとっては明瞭に部分と呼んでよいわけですから、「生物には部分は生まれている、ダイナミックな部分が・・・」。



 細胞の話になったところで、ここはやはり今や「時の人」「世間の話題」になっている山中伸弥先生のiPS細胞(誘導型多能性細胞)のことに触れないといけないですね。
 昨年も今頃やっている授業で触れたのですが、昨年は8月に発表されたマウスで成功したiPSの話をしましたが、そのときはまだ人への適用は難しいところ があるだろう、と思っていました。しかし、もう1年後には人の皮膚細胞からもiPSを作ることができた、というわけですね。
 Cell journal に彼らが発表したと同時に、アメリカWisconsinの研究者も11月20日発行のScience journal に発表しました。研究グループ間のどろどろの競争のことは、あまり興味ないのですが、一応この研究の今後のことを考えてみます。
 山中グループでは、コーカシアンの30代の顔の真皮にある皮膚繊維芽細胞を取得して作ったようですが、Winsconsinグループは新生児の Foreskin(包茎手術で得た)を使っていますから、ちょっと質の違う細胞のようです。Wisconsinのグループでは、c-Myc遺伝子を使っていないので細胞の癌細胞化の可能性は若干低いのかも しれませんが、実用化も含めこの研究の成否は、まったく今後の研究にかかっています。癌幹細胞になってしまってはだめですし。今回のそのCellの論文を 読んでみると、Discussionの中 には、効率は悪いがc-Mycを使わなくてもできたこととか、遺伝 子導入をし なくてもiPS細胞ができる可能性はないかを検討する必要があることが指摘されています。この視点は重要でしょう。本来の生体の中で生み出される幹細胞の 生成メカニズムに近づけるわけですから。いろんなiPSがあってもいいわけです。それは、やはり細胞の外にある「ある環境の成分」とその細胞との相互作用 で生み出されるわけでしょう。実際、今回のiPSでも、4種の遺伝子をただ入れただけではだめで、ある培地の成分(ESmedium+bFGF) が必要らしい。ES medium というのは霊長類の培地上清のようで市販品。



 部分と全体の話に戻すと、このiPS細胞ができたということの意味は、もともと「部分」であった皮膚細胞がある操作をされるとES細胞に近い「全能に近 い性質」をもつようになる、ということですから、人間の場合でも、細胞という「部 分」は、「全体」にもなりうるのだ、ということになります。つまり、この「部分」は、「ダイナミックな部分」といってもいいでしょ う。決して生物の部分というのは、固定的でもないし、静的でもない。生物体という「全体」があってこそ生み出される「ダイナミックな部分」である、という ことです。ロボットにある部品(部分)であるギアなどとは本質的に違う、ということ。

 今年の秋は、大変短く、紅葉見物も17日ごろに近くの揖斐川の渓谷(揖斐渓) とその上流のダム周辺にちょっと行っただけでした。夜叉カ池(坂内)付近の 山肌の紅葉は、いろいろな色合いの紅葉のグラディエントが霞のように山全体を 覆って、和風で穏やかな秋景色でした。また、ここの道の駅で食べたダチョウ肉の ハンバーグは絶品でした。
 例年、紅葉といえば、この近くにある横蔵寺が有名で、大変鮮やかな紅葉を見ることができますので、何度か訪れてきました。この横蔵寺では、一本のカエデ の木が深紅に全体が染まっているような風景がたくさんあるので、いかにも「絵に描いたような奇麗な紅葉」に相応しいのです。一本の木やその中の一枚の葉っ ぱは、いかにも鮮 やかできれいなものがあるのですが、山全体を覆っている紅葉の霞のようなグラディエントでは、一本の木の鮮やかさは目立たなくなります。
 以前は、鮮やかさだけが「奇麗な秋景色の要素」と考えていたのですが、実は山全体を覆う、霞のような、から黄色までの多様なグラディエント、穏や かな柔らかさ、温かさこそが、日本の秋景色らしいと思えるようになりました。鮮やかさだけを求めるのなら、アメリカ・ ニューヨーク 州のアディロンダック公園の鮮やかな黄色強いコントラストをもった広大な景色に はかないませんね。ほとんど微妙なグランディエントがなく、いかにも「絵に描いたような」風景です。
 しかし、決して全体としては鮮やかさを感じなくても、多様で霞のような微妙な色合いの変化こそが、日本らしい秋の風景なんじゃないかな。そんな風な思い を素直に感じることができるようになった年になったということでしょうか。一本一本がどんなに鮮やかな黄色や茜色の葉をもっていたとしても、その「部分」は、「全体」のハーモニーの中の一音にすぎず、部分の鮮やかさだけに目を向けるので は なく、全体の調和した景色を愛でるようにならなければ、本物の「紅葉通」じゃないんだろうなぁ、なんて思っています。部分の鮮やかさを愛でる仕方と、全体のハーモニーを愛でる仕方は、脳の使い方がどうも違うようです。



 追記です。最初に「木を見て森を見ず」と書きましたが、評価で難しいところはまさにその点ですね。法人化した大学では、教員の研究評価、教育評価が真っ 盛りです。研究の評価でよくつかわれるのは、Citation数やJournalのImpactFactorです。でも、これらはあくまでもその研究者の活動全体という森の中の木という部分、にすぎません。その部分だけを神 格化すると、全体が見えなくなり、評価を誤ることもありうる、という批判があります。そうは言いながら、そのような数値化した基準での評価が普通に行われ ます。
 最近、BTJ誌 上(PDF)で、最も権威がある世界の大学ランキングなるものが載っていました。「2007 THES-QS World University Rankings」だそうです。こういうのに、上も下も敏感になっています。この総合ランキング500位までに日本の大学が35入っているようで す。主 に、論文による研究力の評価のようですが、他の評価も参照されているようです。
参考に引用しておきますが、こういうのは一歩引いて眺めるのがよろしい。岐阜大が日本の中で19位というのは意外でした。従来の評価では25〜30位ぐら いでしたから。
また、13位(広大)と14位(長大) の間にギャップがあります。

総合ランキング
順位     大学名

17位
東大
25
京大
46
阪大
90
東工大
102
東北大
112
名大
136
九大
151
北大
161
慶応
180
早稲田
197
神戸大
209
筑波大
212
広島大
273
長崎大
284
千葉大
318
昭和大
331
群馬大
335
都立大
345
岐阜大
354
横浜国大
364
東京理科大
364
大阪市大
377
岡山大
386
熊本大
400以下
横浜市大

金沢大

一橋大

三重大

新潟大

鹿児島大

お茶の水大

立命館大

埼玉大

青山学院大

同志社大


(2007.11.25)