大学のベル・エポック?

 先日 7月中旬、大学院時代お世話になった先生の退職記念の講演会・懇親会があって、参加しました。20数年ぶりにお目にかかる人たちが多く、懐かしさよりも、こんな時代があったのだと不思議な感慨にふけってしまいました。あの頃は、実に自由な発想でいろんな研究をさせてもらったな、という感謝の気持ちと、あのような、研究の上でも生活の上でも自由な環境が許されていてそれが大学での当然の研究というものだったのだ、という思い、いまさらながら「よき時代」(ベル・エポック)という言葉が浮かんできてしまいます。つまり、現在のように「生命科学」が国家プロジェクトの中心の一つになるような時代では、サイエンスを「楽しむ」というより「金になるか」「特許になるか」「賞が取れるか」などが「科学」をする主要な動機として煽られてくるようだと、あの当時、海のものとも山のものとも分からない対象にぶつかっていく「楽しみ」を存分に味わえた時代は、現在と比べると確かにベル・エポックだったのでしょう。

 それに比べて今の国立大学の置かれている状況はどうでしょう?あのベルエポックの大学は、むしろ「 アンシャン・レジーム」(旧体制)であり、絶対王政で守られてわが世の春を謳歌していた貴族・僧侶などの特権階級もどき、として捉えると、現在の状況は18世紀あのフランス革命で「ヌーボー・レジーム」(新体制)に変わろうとして商人などブルジョワジーの力がどんどん強くなっている状態に似ていませんか?ただ、あのフランス革命との違いは、大学のヌーボー・レジームへの激変が「お上」が仕掛けてきていることでしょうか。それでも、そのお上が実は経済産業界など下からの圧力で動いているのを考えれば、実はフランス革命時のブルジョワジーからの圧力とのアナロジーとして捉えてもおかしくないような気がします。もちろん、実際の国立大学はこれまでも決して、すべてアンシャンレジームの特権階級ほど「特権」があったとは思いませんし、むしろ少ないお金でお上の言われるがままに(大部分は)運営されてきた組織ですが、少なくとも制度的には、独立した組織ではなく、国家から庇護されていたと「思わされて」いた組織ではあります。

 フランス革命では、全人口の 1.5%ぐらいしか占めていない特権階級が打破されたと言われています。一方、今後の大学の改変では、今の全大学の 5%ぐらいが何か「特権大学」のようにさせられようとしているように見えます。ところが現在の大学では、これまでも東大を頂点とした特権的ピラミッド構造があったわけで、これが崩れない限り「新体制」に移行したとしても期待されているほどのものを産み出せるようには思えません。トップ 30が現状のままだと、実質的にほとんど変化がなく飽和状態(前々回の雑記で、東大などは投資した研究費と業績の関係が頭打ち、即ち飽和になっているという指摘を引用しました)が続くだけですから。

 最近マスコミで研究論文の引用度(ISI社調査)で東北大学や東大、京大が世界のトップ5に、いくつかの分野で入っていることが報じられていましたが、これは研究者の多い分野に多額の予算をつぎ込めばそれだけ良い論文を生産できたことの証明に過ぎないんじゃないでしょうか。しかし、実際アメリカと比べたら、日本ではすそ野に対応する大学が(人的・予算的従って業績的に)かなり脆弱なんですね。全体の技術・科学力を考えたらここが大事なところだと思うのですが。

 統合や連携などの努力をして新しい有力な組織に生まれ変わることができたなら、これまでの旧七帝大と同等かそれに近いの 競争力を得ることが認められるようなシステムになって欲しいと思います。それでなければ、現在の、すそ野が脆弱なピラミッド構造は変わらず、全体としての高等教育機関の脆弱さは改善されるはずがありません。

 立秋の頃になると暑さの和らぎが感じられるようになりました。 7月の暑さは異常でした。しかし、来年は岐阜大学も 7月末まで授業(試験)が行われるようになるんですよ。今年でなくて良かったな、とは思いましたが、来年も同じように暑かったら…? 倒れる学生が出ないことを祈ります…。今回、工学部ではお盆前後の10 日間が強制的に休みになります。できるだけ電気を使わない、ということですが、どうなりますやら。もっと安い電気ありませんかねぇ。他の県では中部電力以外から電気を買うところも出てくるようになりましたね。もっと安くて便利なパーソナル発電機が普及してくることを望まずにいられません。こういうので身の回りのIT機器をまかないたいものです。こういうことを考える必要があるというのも、すそ野の高等教育機関の脆弱さの現われなのかも。。。

(2001.08.09)