曖昧さ
曖昧な評価のもとでの競争?
こんなことが衆人環視のもとで堂々と行われれば、一番可哀想なのは競争に参加して一生懸命競争している者達ですが、それを観ている衆人もあまりいい気はしませんね。
と、前置きしておいてと。。。
さて、とうとう地球村の祭典 WCが終わりましたね。 JapanもKorea ももちろん、世界中が熱狂の中にあったようですが、主催国ならではのいろんな状況が見えてきたように思います。私は(も)、昔 Jリーグが始まってからは野球よりも蹴球のほうを興味を持ってみるようになった口なのですが、なぜ興味深いのかを考えてみると、より人間的(というより生物的)だからかな、という気がしています。特に、今回の WCを観て、そう思います。同じようなボールを扱うゲームなのに、サッカーはアメリカのメンタリティに合わない、とかいってアメリカの一流紙で論じていたようですが、アメリカでは他のメジャーな球技ほどには普及しないのはなぜか、ということも、考えてみると面白いですね。
サッカーでは、人間活動で非常に重要な「手」という器官をつかってはいけない、という制限を付けて、なるべく点が入らないようなルールになっているので、点が入るまでの時間のいらだちが長い分、ようやく点が入ったときの喜びが大きいので、熱狂的になりやすいのではないか、とも言われます。それもそうかもしれませんが、私には、その「点が入るまでの時間」に行われる格闘、だまし合い、創意と工夫、意外性の発揮、など22人が広いスペースで繰り出す技の応酬の多彩さとおもしろさが、ポイントじゃないかな、と思っています。
もちろんゲームだから、ある一定のルールに則って行われる。そして、そのルールに反しているかどうかを判断するのは、審判員。その審判員のジャッジ次第で、試合がおもしろいものになるか、つまらないものになるかが、大きく左右されることがありますね。それから、そのジャッジの判断基準自体も割と曖昧だし、シミュレーションの判定やスローイングの位置やフリーキックの位置なども相当曖昧でしょ。例えば、良く問題にされる オフサイド。これは、FIFA 規定では次のようになっています。
「オフサイドポジションにいるプレイヤは、ボールが味方の一人に触れるか扱われた瞬間に、 審判の見解により、プレイヤが以下のようにして実際のプレーに含まれていると判断された場合に限り、反則を取られる。 ・プレーへの干渉 ・敵方へのインターフェア」
つまり、審判が判断する場合に限り、ということでオフサイドという違反をとられます。その判断基準が、「ボールが扱われた瞬間に」オフサイドポジションにいたかどうか、ということですが、よくテレビなどでは「ボールが足を離れた瞬間に」という表現も使います。この状態を、「厳密に」考えてみると、ボールを出す味方のプレイヤー(1)の足が動き、オフサイドポジションに近いところにいる味方のプレイヤー(2)も動いているとき、審判員の目がボールの動きを追って(1)の足からボールが離れた「瞬間」を捉えて、次に視線を移動させ(2)の動きを捉えようとしたら、何ミリ秒かのずれが必ず出ます。だから、その「ボールが出た瞬間」にはオフサイドポジションにいなかった場合でも、その何ミリ秒ののちにはオフサイドポジションに出ていることは十分にあり得ます。なぜなら、(2)のプレイヤーはボールを持っている味方(1)の動きを予想してすでに動いている場合が多いので、予想できていない審判員の視線の動きよりも先に(2)の方が動けるはずですから、もし(2)が1秒間に1mぐらいのスピードで動いているとすると、 0.1秒のタイムラグ(審判判断の遅れ)があれば既に 10cmは動いている((2)のプレイヤー)ことになります。だから、このオフサイドの判定は、「物理的」には非常に困難な判断を人間に要求していることになります。それにもかかわらず、写真判定などの他の物理的手段によって「真実」の判断をするのではなく、審判員の判断に全面的に頼るのが、規則になっているわけですからね。
ということで、かなり曖昧な判断のもとで、重要な駆け引きのオフサイドの攻防が戦われるわけです。ラグビーにもオフサイドの規則がありますね。これも同じように、ボールを持った味方よりも前にいる味方がボールを受け取ってはならないわけで、これも「厳密には」困難な判断を要求されていることになります。こんな曖昧な判断基準の上に立って、試合の重要な流れが決まるようなことは、アメリカン・フットボールなどには少ないことでしょうし(もちろん相対的には、ですが)、アメリカが謂うメンタリティには合わない、というのは、何となく理解できます。
ま、それにしても、フランス、イタリア、アルゼンチン、ポルトガルなど、 WCまでに日程的に困難な試合をやってきて相当多くの選手が体をボロボロにしていたようで、実力が発揮されるのを見れないまま、去っていったのは残念ですが、曖昧な判断による審判のジャッジへの不信がこれほど多かったのも、珍しいようですね。これが練習試合とか、親善試合とか、あまり高額な金が絡まないゲームなどの時は、「審判、もっと勉強してよ!」ぐらいで済むのでしょうけど、 WCになると巨額の金が動きますし、選手も生活がかかっている人たちも多いでしょうからね。当然、 WCではどの試合も「最高最善のジャッジ」を求めたくなります。しかし、金が大きく動くゲームにはどうしてもダーティな部分が出てくるのは、世の常、というべきか。だから金にあまり左右されないことがわかっていた3位決定戦では、ただ3位という名誉のためだけにあったので、すごく感動的な試合だったじゃないですか。3位も4位も賞金額は同じだし、メダルも同じように与えられるらしいので。それにしても、トルコの試合、良かった!
ゲームとは違いますが、あのトルコの国歌、マイナーなメロディーで、日本人的な、というのか、日本的な雰囲気を持ったメロディーだなぁ、という感想を持ちました。(昭和生まれの僕にも)大変懐かしいような、明治−大正時代あたりに流行ったのではないかな、と思わせるような、そんな感じでした。その歌詞もメロディもコンテストで選んだそうですね。根の深いところで、原点のようなところで、似ている国民性なのかも。
もう一度、この曲を聴きたい人は http://ww3.enjoy.ne.jp/~ruto118/wctoruko.htm へ。
それにしても、この6月は、試合の期間中には研究室ゼミの時間もよく変更したり、かなり影響された1ヶ月でした。4年に1度の大会ですが、例のチャイコフスキーコンクールも、まさに4年に一度 WCの時におこなわれるわけですが、各務原市の上原さんがピアノ部門で優勝、これはすごいことですよ。こういう大会での評価は、私は有無を言わずに納得しますね。感性の問題ですから、むしろ曖昧さが無いのですよ、私には。
( 2002.07.05)