「違い」について 

 この 2ヶ月ほどの間は、野依先生の(予想通り)ノーベル化学賞 受賞のニュースや、アフガン「戦争」の(錯綜しめまぐるしい)ニュースや、 流星群の(感動的)大出現ニュース(つい昨日ですが)など、色々気を引かれるものがあったのですが、あれやこれやで気忙しく、雑記を書く気が起きませんでした。ようやく最近になって、ちょっと一段落したので再開します。

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 なぜ こんなに違うのだろう 、と思うことがありますよね。いろ〜んなことで…。ま、それが人間の認識力の源泉なんだと思いますし、自分を知ることにも繋がることなんだと思います。(って、あまりに抽象的すぎますね)

 先日、岐阜で有名な柿、富有柿 Fuyu_gaki) の産地、隣町の糸貫町に行って富有柿を仕入れてきました。昨年岐阜にきて初めて富有柿を見ましたが、まずその形に驚きました。平べったい(角が少し丸みを帯びた)四角っぽい形ですから。今まで柿の形は、干し柿とか少し先の尖がった形をしている生柿しか見たことがなかったので、なんでこんなに違うのだろう、とまず思いました。形が四角っぽいですから、ちょっと包丁で剥き難い。しかし、味はとても美味しい。こちらにはこの四角い富有柿だけでなく、先の尖がった「ふじ柿」というのも並んで売っているので、並べて見てみるとその違いに笑いがこみ上げてくるほど(なんでこんなに違うの?って)。四角いので、箱詰めがやり易いだろうな、とか、重力に逆らった形をしているな、とか、すぐ、いくつかの思いが頭をよぎります。

 ちょっと調べてみました。この東洋系の柿は、中国の生まれで、中国語では柿子( Shi zi)、学名は Diospyros kaki  だそうです。ラテン語系のフランス語でも kaki 、スペイン語でも Caqui 、イタリア語でも、Cachi というのだそうで、日本での発音と似ていますね。ただ、英語では、 persimmon と辞書に書いてありますし、ドイツ語でも persimone です。 Persimmon は、アメリカ原産の小さな野生の柿の実を指すのだそうですが、私はアメリカ滞在中は野生の柿を見た記憶がありません。これからすると、「柿」という漢字はもちろん中国から来ていますが、 kakiという、学名にまでなっている読み方は、日本で考え出されたものなのでしょうか。ここはまだ調べがついていませんが 1) 、いずれにせよ、「世界に通用する」呼び方なので、安心しました (通用しなかったら「安心」じゃないの?っていう突っ込みはなし、ね!) 。しかし、なんで  kaki という呼び方をしたんでしょうね?それが、最大の疑問です。なぜかって、あまり「柔らかくて甘そうな」発音じゃ無いじゃないですか。むしろ、硬そうで渋そうな発音。渋くて、吐き出そうとするときのような発音に聞こえます。あるいは、渋柿が多かったからかもしれませんけどね(ホントカナ?あるいはサンスクリット系の音?)。

 まあ、でも、このような柿の形の差異などは楽しいものです。また、方言の差異や、味噌汁の作り方の差異などもかわいいものです。しかし、世の中には、恐ろしいほどの差異もあるのですね。「 常識の世界地図 」(文春新書)という本を読んでみると、同じ人間の脳が生み出したものとは思えないほど、違う考え方があるのが良く分かります。

 挨拶の仕方や、マナーの考え方、食の習慣など、ほんと、様々な差異が世界にはあるのですが、このグローバルな時代、異文化に触れ、相手を認めていかないといけない。差異の「理解」はできなくとも、差異を楽しみ、寛容でなくてはいけない、マジックを楽しむように。(と、頭では分かっているはずなのですが……)

 とは言いながら、その本を読むと、その差異を知らなかったばかりに国家間の問題にまでなりかねないような事件もあったことが分かります。特に、宗教と遺体の葬り方には正反対の考え方があるようです。ヒンズー教では、火葬で、魂は焼かれることで天に昇り遺灰は川に流して自然に還らせるというのが葬り方です(仏教もそれに近いですね)。一方、イスラム教では土葬であって、火葬については逆に地獄の業火に焼かれるという考えで忌み嫌うやり方なんだそうです。フランスで、あるカトリックの方は(埋葬が普通ですが)火葬にすると歯のつめ物に入っている水銀が蒸気となって大気を汚すので良くない、というようなことを言っていたのを覚えています。なるほど、これは一応科学的な根拠は提示されているようですね。カトリックでは遺体自体も重要なので埋葬が原則だそうですが、環境的に埋葬が許されなくなってきたので 1963年には火葬も認められるようにはなっていたそうです。

 このような差異は、いわば、文明というか、文化というか、広い社会的営みの根底をなすもので、優れているとか劣っているとかという評価ができる問題ではないですね。その差異こそが文化なのですから。

 しかし、卑近な人間活動をみると、人と人との差異を強調するための「評価」活動が盛んです。大学でもそうですね。工学部の教育面でも、学生がどんなことを学ぶことができたのかという出口( Outcome)でもって教育を評価しようとする動きが広がってきています。あるところでは、その評価を教員の報酬の多少にまで適用しようとする動きもあるようです。このようななかで、ある会社の人事部の人が書いた「 成果主義と人事評価 」(講談社現代新書)は、示唆に富んでいると感じました。副題には、「成果主義はなぜ危険か。どう活用すれば良いか。」とあります。これからの大学は、「民間的手法(どんな?)を取り入れ」会社の運営を手本にしてやっていく、というようなことがよく言われてきていますが、このようななかで、その会社自身の立場からの辛口コメントに耳を傾ける必要があります。よく検討もしないで安易な「成果主義」に走ると組織を滅ぼす、ということも認識することが必要なのかもしれません。(この場合、「組織を滅ぼす」とは、却って組織の「生産効率」が低下し競争力が悪くなって、組織の本当の目標を達成できなくなることを謂います。)

 自然科学の実験研究では、「差異を計る」のが仕事のかなりな部分を占めており日常的に行われることであって、その原因を下のレベルから説明して、さらに「共通の仕組み・法則」からその「差異」を理解しようとすることが行われるわけですね。しかし、人と人との関係である 社会的営みの中での「差異」の評価 は、あまり安易にやっては欲しくありません。

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 ところで、ちょうど 1年前は、アメリカ大統領選挙の結果の問題がこの時期の焦点でしたが、つい先日、手作業をフロリダのある地域で続けてやっていたらゴア候補が勝っていたとか、全体ではやはりブッシュが勝っていたとか、「総括的」ニュースが流れていました。あの「危うい民意反映のシステム」の基盤の上にたつアメリカ大統領選挙の結果によって、現在に繋がる動きがあるわけですが、もし、ゴアが勝っていたら現在の状況にどのような 「違い」 が出ていたでしょうか?大して差はなかったかもしれませんが、若干気になるところではあります。

(2001.11.19)

1)補足(気になったのでさらに調べてみました)

下記(!)に柿の語源や歴史などについて書かれていました。

http://www.iidawjc.ac.jp/mimi/kaki/kaki.html

    参照。(飯田女子短大・平井俊次教授)。

Kaki の呼び名の起源については、これとは別のサイトにも載っていましたが、江戸時代の資料に「柿は実の赤きより名を得たるにや、云々」とあるので、「赤き」→「 akaki」→「kaki 」となったんじゃないか、ということのようです。しかし、平安時代の資料には、「和名 賀岐」とあったり、「加岐」とあったりしたということで、「赤き」から来たとは単純には信じられないのですが。(「赤き」から来たのなら Akaと呼んでも良かったという気がしませんか?)それに、「赤」といってもその色には様々な色調があって伝統的に名前のついている赤系統の色だけでも 100種類近くあります。柿の色は、赤というより橙色ですから、特別に「柿色」という色があるくらいです。ですから、私としては「赤き色」の代表として kakiができたとはちょっと考えにくい。

 むしろ、平安の資料にある「賀岐」に気が惹かれますね。この「 」は岐阜にも使われていますが、「深く入り込む」という意味があるらしいので、「山を深く分け入って見つけたうれしい(賀すべき)もの」という意味にもとれるのではないでしょうか。山あいに枝もたわわになっている見事な柿木を髣髴とさせるではありませんか。

 また、ちょっと驚きは、この柿の学名はフルに書くと Diospyros  Kaki  Thunberg (ディオスピーロス カキ ツンベルグ)というのだそうです。最後のツンベルグは発見者の名前ですが、この人はあの「ツンベルグ管」を作ったカール・ペール・ツンベルグ博士( Dr. Carl  Peter  Thunberg ; 1743~1822年)なのですよ。生化学研究者なら誰でも知っているこのツンベルグ管、私も大学院での研究で大変お世話になりました。ツンベルグ博士が日本に来た時に「発見」して学名を付けたのでしょうか。最初の Diospyrosは、「神の食べ物;Diosはゼウスつまり神、pyrosは穀物などの食べ物」というような意味だそうで、日本では古くから干し柿を祭礼のお菓子として使われていたようなので、神事に欠かせないものだったようです。

 む? 神事に関係ありとすれば、もしかしたら、柿Kakiの読み方はアイヌ語に関係ないだろうか?アイヌ語で、神(カムイ)のカは「上の、天上の」という意味らしいし、キは「する」という意味になるから、妄想をたくましくすると、「柿=カキ」は、縄文の古代から「神事にする事=お供えするもの」というような意味で使われ、呼ばれてきたのではないか。(なんてね、新しい理論の独り言…)

 それはともかく、今の時期、カキ といえば、柿でもあり、牡蠣でもあります。この貝の牡蠣がどうして「カキ」と呼ばれたのか、これも不思議です。当然、「赤き」とは関係ないですからね!(これも神事のお供え物?)

 今は、それらカキの美味しい季節の真っ盛りです。

(2001.11.20)