五月の薫り

 五月も半ば過ぎ。連休明けには五月雨が続き、また蒸し暑さも出てきて鬱陶しい梅雨も間近か、と思わせるような時期。それでも風薫る五月がぴったりの爽やかな日曜の朝に出くわすと、8時にはスニーカーを履いて長良川の河原の散歩。鮎釣りが解禁になり、早朝でもところどころに竿を垂れた太公望たち。河原の草もむせ返るような香りを発し、朝のお仕事に忙しい鳥たち。若干水かさが少なくなって、手ごろな大きさの小石を敷き詰めた川底がむき出しになっていて、降りていって川べりを眺めていると、小魚の群れと、久しく忘れていた生臭い香りによって想い出した餓鬼のころの川遊びの風景。時空を超えてすべてがリンクしていることを実感する瞬間。

 5月になって、昨年度に引き続き、ネットワーク大学コンソーシアムの共同授業が始まりました。今回もお世話させてもらっていますが、今年度は生命工学科の授業の1年生の時間割の中に完全にはめ込んでしまいましたので、1年生だけが登録して単位履修をおこない、2年生以上は単位を取れなくなりました(教養的単位はいくらでもとれるようにすりゃいいんだけどね、コンソーシアムの制度と今の大学の制度の折あわせがうまくいってないんだな、これが・・・)。それで、登録者の数は昨年よりだいぶ少なくなってしまったので、別に特別聴講生の制度なんかも作ってインターネットからの聴講を呼びかけたりしているわけ。ま、それは別にいいんですけどね。こんな面白い話を、単に単位とは関係ないから聴かないというのはホントもったいないなと思うだけだし、講義内容は将来デジタル化されて資産として残されていくということだから。

 今回の最初の講義は、養老先生の「情報とは何か」、というお話でした。養老先生の話をリアルタイムで拝聴するのはこれで2回目ですが、彼の本はなぜか知的好奇心をくすぐられてつい買ってしまって、「養老フリーク」みたいな状態ですので、今回の話は「人間科学」という筑摩書房の本を読めば出ている話、ということはすぐ分かりました。でもこの話を大学1年生が初めて聴くときはどんな感想を持つのかな、たぶん鳩が鉄砲玉食らったような、キョトンとした感じだったような。この人間科学という本の内容にもありますが、脳と身体との関係を情報という切り口で描いてみせる手法は、昨年読んだときも新鮮でした。

 彼の持論である「脳化社会」、人間が歩きやすくなっている道路などもその一部の典型ですが、身体のほうが歩く道は平坦なもの、という状況に慣れてしまっています。ですから、自然な石が敷き詰まっている河原の底を歩いてみると、ガクガクという衝撃が腰に伝わって、なんと不自然なこと。子供のころはこんなことはなかったのにな、と感じたりしますが、それでもしばらく10分ぐらい歩いていると身体のほうが石ころの凸凹の状況のもとで歩いているということを「学習して」か、割と自然に(ガクガクせずに)歩けるようになるものですな。アシモのような最先端の2足歩行ロボットはこんな凸凹道もちゃんと歩けるのかな(キャタピラ方式にせずに)?

 この脳と身体の関係の不思議さは、4回目の講義の平野俊夫先生の免疫学の話でも出てきました。脳や目、生殖器官は「免疫特区」になっているという話がありました。このお話も、初心者にできるだけ分かりやすくという意思を持ってされた講義で、実に面白い展開でした。身体は免疫システムなども含め、荒々しい自然に立ち向かうために作り上げられてきたわけですが、脳や生殖器はその身体からは区別され特別に保護されて役割を果たすようになっているわけですね。そして、人間は、というかその脳は、荒々しい自然に手を入れ「脳化社会」を拡大してきた。その結果、荒々しい自然である環境は、一部は「平定され」穏やかなものにさせられ、数万年前ホモサピエンスが出現してからごく最近の数百年(ほんの百分の一の期間で)だけでこの脳化が至る所で進んだ。すると遺伝子的には荒々しい自然に立ち向かうように作られた身体は、「穏やかな」環境に適応するようになってしまったため、アレルギー反応の激化のような自己の身体内部の「あら探し」を始め、内部に荒々しさを作ってしまうようなことも起こってしまう。中東の砂漠地帯のようなところは「荒々しい自然」そのものという感じですが、そこに脳化の最先端である電子的戦闘装置が入っていって廃墟を作っている様子を見ると、「脳と身体が戦闘している」という錯覚を持ってしまいます。人間の脳は「脳化」の対象をいつも求めている。臓器移植や再生医療も、高性能のロボット作成計画(アトム計画)やサイボーグ計画も、実は未来の「身体の脳化」プロセスの一部なのかも知れません。

 身体が無い状態で脳だけを生かす、などというのはSFの世界ではずいぶん前からありましたが、脳は情報を処理する「装置」であり、情報は「永遠で固定される」性格を持つがゆえにそれを処理する装置である脳自体は、自らを「永遠に変わらない」と錯覚する装置であるのかもしれません。実態的には、脳は身体と繋がって初めて「生かされている」のですが、永遠であるべきと錯覚した脳は、寿命のある身体を邪魔なものと錯覚し、身体までも脳化しようとする。脳「原理主義」とでもいえる状況。このような脳化が極限まで進んだら人間の未来はどうなるのか?… たぶん極限まで行く前に、身体のほうが脳に対して反逆するのではないか、と予想しますね。「生かされている」おのれを知れ!とばかりにね。

 しかし、脳化の進んだ典型と思われている「インターネット」は、逆に脳からの制御を超越してしまったネットワークなのだそうな。いうなれば、無意識のネットワーク。その振る舞いは、自然の普通のネットワークのように「金持ちはますます金持ちに」というベキ乗則に従っているのだそうな。ただ、そのような自然なネットワークに対しても、管理しようという「脳化」への力も働いているのもまた事実。無意識のネットワークの意識化。今後もいろんな局面で、脳と身体、意識と無意識の間の闘争が起こるのかもしれません。

風薫る、気持ちの良い五月に、おどろおどろしい夢想をしてしまいました。「スルメイカ」作りに精を出して身体を酷使していると、生き物の「イカ」を忘れてしまうのでしょう。やはり脳と身体は、これまでのようにお互いを大事にしないと、ね。

2003.05.18