12月の雪に想うこと
あと3日で2005年も終り。時代の変わり目ではないかと謂われていた2005年。
それも、12月には過去最高の積雪を記録したところがたくさん出たほど、近年経験したことの無いくらい雪が、この岐阜市でも降った年。この2週間ほど、長靴を履きっぱなしで、雪道と凍結のためバス通勤がしょっちゅうであった。先日の大雪が降っている時は、その様は、まるで子供の頃(50年近く前)東北で経験して記憶の中だけにあったいかにも「雪国」での降りざまであった。みるみる雪で埋まっていく、という感じ。記録的には、60年ぶりとかいうのもあったので、さもありなん。気象庁は当初暖冬と言っていたが、この雪と寒さを見てか、例年に無い寒さになる、というふうに予報(というも変だが)を変えた。そのせいかどうか、この冬は特に体調が悪い。
地球温暖化の過程での、北極の寒気団のゆがみがもたらした、大きなゆらぎなのかもしれない。あるいは、ただ単に、数万年規模で考えた場合は、ちょっとした温度のゆらぎに過ぎないのかもしれない。この辺は、マイケル・クライトンさんの批判もあるので、ただ、想うだけ。
まあ、でもこのような、近年に経験の無いような現象と言うのは、今年はこの雪だけではないようである。ここ数日は、新聞でもテレビでも雑誌でも2005年を振り返る、という記事(番組)が多くなっているし、様々な識者が雑誌でもコメントしている。多くの人が感じていることとそんなに変わらないだろうが、2005年を中心に3年前後というこの時期は、確かに「ある流れ」が明確になってきた時期なのだろう。人口減少や少子高齢化というのも、この数年が顕著になる時期であるし、「勝ち組み、負け組み」とか「格差社会」とか「下流社会」とかの言葉で表現される社会状況も、911総選挙からの民営化路線の徹底化の方向性も明確になってきて、ますますそのような「スケールフリーネットワーク」社会が進む状況である。
最近の、韓国でのES細胞を巡る研究論文の捏造事件も、日本での捏造事件なども、そのような状況の流れの中で生れていると想う。目立つ研究にしかお金が来ない、という状況は、ますます酷くなっている。そんな中で、科学研究は検証され多くの研究者に確認されたものだけが残っていく、という原則が忘れ去られ、一時でもNSC(Nature,Science,Cell)クラスに乗っけてしまえば勝ち組みになれる、と若手にも幻想を振りまかれている。金を配分するための評価だってマスコミに取り上げられることを重視したりするのは、耐震性偽造事件でも分かってきた「評価のいい加減さ」ほどでなないにしても、似たようなものであるし、一極集中的にならざるを得ない構造になっている。これまで文科省も含め、科学技術社会において、ちゃんと目利きを育ててこなかったのだから。
そんななか、最近大沢文夫先生の書かれた「飄々楽学」を読ませていただいた。これこそ、大学での良き時代、ベル・エポックの記録である。30年程前に受けた授業の雰囲気そのままである。大学院時代、別の研究室だったが、授業ではあのちょこっと口をすぼめながらご自分に言い聞かせるようにして数式を書いておられた雰囲気を思い出した。物理の分野から生命の分野に進んだ大沢先生は(僕もその口であったが)、その当時生物物理が立ち上がってきた時代を生きた方々には同じような感覚だったとは思うが、蛋白質という高分子の変化に魅せられて、その面白さを授業でも語っておられたように思う。そのように、生体分子の不思議さや面白さから「学ぶ」というのが普通の感覚だった。大学院生だった自分でも、「こんなことが分かったぞ!」と研究会などで面白さを共有することに、喜びを見出せていた時代だった。
それが現在では、最近の大学内での修士論文発表会などでも「著作権の問題があるので発表する前に特許申請をしておくのがいい」などと上部組織から言われる始末である。おちおち自由に研究の面白さを語りつつ、交流するようなことができない時代になったと、嘆くしかない。こんな状況では、若者の理科離れに拍車をかけてしまう。自然の研究の面白さを分かる前に、一流といわれるところであるほど、お金を稼ぐための兵隊に過ぎなくなることが分かってしまったら、才能ある若者を遠ざけてしまいそうである。
へそ曲がりの僕的には、そんなベルエポックの時代には、自己満足的に面白いことを研究していくことよりもっと世の中の役に立つように基礎研究を生かそうとして、工学的な志向をしていた自分がいたのだが、あれから20年、今は昔、なんでもかんでも知的財産に繋げて金づるを確保しようとしている時代では、もっと面白い、知的にわくわくするような研究をしていきたい、と想っている自分が現在、居る。人生観としては、へそ曲がりこそ、面白いと想うのである。
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このように、色んな想いを抱きながら、人々は新しい2006年に突入していく。
書き忘れたことがあった。先に、韓国での論文捏造事件が出たが、この2005年は日本での韓流ブームが本格的になった年だったかもしれない。僕も、「チャングムの誓い」に嵌ってしまった。「冬ソナ」や「初恋」もそれなりに・・・。医学を志向する学生は、ヒポクラテスの誓いとともに、チャングムの誓いを知るべきだ、と想ったくらいである。しかし、周りの学生達は、だれもみていないようだ。少し寂しい。ただ、同じ誓いでも、その中身は若干違う。チャングムのほうは、基本は復讐の誓いなのであって、医術の原則との矛盾を如何にに統一していくか、というところが見所であった。古き良きドラマ、といえるストーリーには、実に味わいがある。
Jリーグも、結末は大変面白かった。小林監督のセレッソを優勝させたかったが、劇的にも、そうはならなかった。トリニータの呪いを感じたものだ。今、天皇杯準決勝が戦われている。鹿島や磐田や横浜が1強だった時代よりも、このような群雄割拠の方が面白い。
社会や、科学研究においても、一極集中のあとには、群雄割拠の時代が出てくるのが、自然なのである。そうして、生命は絶え間なく続いていくのだと想う。
今の最大の問題は、その一極集中が強まる構造ができてしまっていることなのである。一極集中か、破滅か、という選択は生命の社会にとっては、まずいと想うぞ。
ともかくも、2006年は、マジメな人たちにとって、より良い年でありますよ〜に。
(2005.12.29)