最近、ネットワーク大学コンソーシアムの共同授業で私が担当した講義の中で、生命科学のネットワーク的考察による「まとめ」を試みたが、その過程でBarabasiらの業績を使って研究費配 分の日米比較を行ってみたところ(生命科学とは関係ないが)、意外な側面が見えてきたので、ここに別に紹介してみる。
現在ネットワーク研究者や社会科学者の間で有名に なっているBarabasiらの業績を紹介する必要がある。NatureやScienceなどに2000年ごろより精力的にネットワーク分析について報告してきた彼らは、「Linked」という一般書を著わし、その 日本語訳がNHK出 版から2003年 の初めに「新ネットワーク思考」というタイトルで出版された。この本では、生命科学の分子レベルのネットワークから経済や社会的なネットワークまで、考察 されていて、ランダムネットワークではなく、スケールフリーネットワークの存在とその生成理由などを分析して見せていた。
右の図2にしめしたが(まとめた図はここからPDFファイルをダウンロードしてご覧下さい)、科研費の取得件数と大学数(Total125)のヒストグラムでみる
と、両対数プロットで明らかに右下がりの直線に大部分の大学が乗っている。すなわち、スケールフリーネットワーク状(ベキ乗則)である。しかし、上位
4〜7大学がその直線からはずれている。上位34大学を取り出し、科研費と論文数と論文引用度で同じようなプロットを取る
と、論文引用度はランダムネットワーク状の釣鐘型を示している。また、(論文数/科研費件数)という、いわば論文生産性においても同様な釣
鐘型である。良い仕事は、上位30数校の大学においては、かなりランダムに近く「発生」してきた、と理解できる(最上位じゃなくても良い仕事はしてきた、というこ
と)。
したがって、これは、従来から言われているように、日本の大学ではこれまでのように投資を集中し続けても、全体的には良い(影響力の大きな)仕事に繋
がっているわけではない、ことを示している。
アメリカでネットに公開されている資料を元に分析 した結果を、右の図3に示したが、公的資金(NIHやNFSなど)に関しては、アメリカのTOP87大学ではスケールフリーネットワーク状ではない。若干左にシフトしたベル状で(nの小さいポアソン分布 に近い)ある。むしろ、私的寄附金(企業からの寄付や個人の寄付)のパターンはスケールフリーである。私的寄付の場合は、関係する企業や個人が、伝統を考 慮して「優先的に選択しながら」投資していると考えられるので、理解可能である。日本の公的資金分配のパターンは、むしろ、(残念ながらと いうべきか)アメリカでの私的寄附金のネットワークに近い構造を示しているのである。また、アメリカでは公的資金よりも私的寄附金のほうが 数倍から数十倍多いのが普通であるという点も、日本の大学(特に国公立大学)との大きな違いである。
もし、公的資金の配分の基準が、厳格に「良い仕事 に対して与える」という規準でやるなら、その配分は図2右下図のように釣鐘型分布に沿っておこなわれるはずだから、その論文引用度パターンに近くなるはずで、 スケールフリーにはならないはずである。アメリカの大学の公的資金配分分布がランダムネットワークに近いのは、おそらくアメリカの大学では公的資金の審査 はそのような、ある程度確率的に出現する"Good Job" に対して与えている ようになっている、と考えると理解できる。日本では、公的資金である科研費取得分布が、スケールフリーネットワーク状になっているということは、それが 「優先的に選択されて成長するネットワークにスケールフリーネットワークが生成される」という原理に基づいていることを考えれば、正に日本の大学での公的 資金は「優先的選択」に基づいて配分されてきたことの証左であろう。さらに、旧七帝大の一部はそのネットワークからも外れるくらい、「超 集中」して投資されていたことになる。
このようなベキ乗則に則ったネットワークでは、Barabasiらが解明したその原理の教えるところでは、中間層にいる大学がいくら頑張っても、このネットワーク構造のRobustnessゆえ、その構 造を大きく変えることは至難であり、またこのネットワークにエネルギーをいくら投下しても、どんどん内部的に凝縮が起こってしまい、アウト プット(成果)が何もなくてもこの構造が維持され継続していく、ことが示唆される。さらに、「超集中」は飽和した状態を増やすだけということなる。(恐 ろしいことである。失われた10年とかいうのも、この辺に理由がありそうではないのかな。銀行など金融界でもベキ乗則が主体になってい るはずだからいくら公的資金を注入しても...)
この、公的資金配分における日本での「評価方法」 がこれからも維持されるならば、大学の制度をどんなに変えても(法人化しようとも)、競争することで良い仕事がどんどん増えて社会に還元されていく、 というようなことを大学に期待するのは、幻想という事になる(部分的には可能であろうが)。すくなくとも、制度的にアメリカ的な良い面を見習おうとするな ら、まずそのしっかりした評価方法を参考にして、日本での評価方法の抜本的改革を行うべきで(文科省内に第三者評価機関を作っても(第三者になりう るのか!)意味があるのだろうか?)、そのためには評価体制を充実する方向に もっとエネルギーを使うべきであろうし、費用対効果をうるさく言うのであれば、悪しき日本的な「あいまいな」評価方法を捨てなければ、公的(だけではなく 私的)な支援の面での進歩は、ない(と断言したい)。一例をあげれば、申請書の中の、計画概要ぐらいを英訳して提出し、日本の大学とは利害関係のない特別 に契約した外国の研究者にも評価依頼をして、時間を掛けて評価してもらう、などということがあっても悪くないかもしれない。
すくなくとも、科研費に関して言えば、最低論文業 績ぐらいは精査を徹底してそれを数値化した後、その数値に沿って7〜8割ぐらいの配分額や件数を決めていけば、アメリカ的な公的資金配分のパターンに近く はなるはずである。残り2〜3割ぐらいは、論文業績よりも申請書の提案計画自体のインパクト性などを重点的に精査するのも悪くはない。これなら、ケーレツ に属しているだけで、インパクトが無くても、また論文業績をあまり出していなくても沢山科研費をもらえる、などいう変なことはなくなるに違いない。
やはり公的資金の配分の分布は、スケールフリー ネットワーク状にならないようにコントロールしないと、成果は税金を払っている国民に、有効に返っていかないようになる。影響力のある成果 は、ランダムネットワーク状に発生するのだから。
(2003年7月)
*この文書と関連データ(図2と3、およびダウンロードできるPDFファイル)には著作権を主張します。(吉田 敏)